戦線は会津へ!白虎隊出動!

輪王寺宮様、鶴ヶ城をご訪問される

輪王寺宮様〜後の北白河宮能久親王様松平容保

 上野から脱出を余儀なくされた輪王寺宮様が、幕府軍艦で常陸国多賀郡平潟の港に到着された。既に賊軍の汚名を着せられた東北諸藩にとって、宮様の存在がどれだけ人々を勇気付けたことだろう。輪王寺宮様におかれては、会津鶴ヶ城をご訪問された。容保は感涙にむせびながら、宮様を城内金の間に迎える。今は亡き孝明天皇の義兄弟にあたる宮様を迎えたことに、容保は特別の思いを感じた。思えば禁門の変では、孝明天皇を拉致しようと企む集団が宮中に乱入し、のちの明治天皇が恐怖のあまり引きつけを起こされたほどだった。時代は暗転し、今や薩長が幼い明治天皇を担ぎ上げ、自分勝手な政治を始めている。孝明天皇のご信認を受けた会津藩こそ正義であって、孝明天皇に近い輪王寺宮様こそ、東北諸藩にとっての盟主にふさわしいお方だと考えられた。
 会津若松を発った宮様は、東北各地で盛大な歓迎の嵐を受けながら、仙台へ向かわれた。

山川大蔵の活躍も空しく、藩は次第に窮地へ

 厳しい身分制度、過酷な年貢の取立て、東北の保守的で閉鎖的な風潮は、彼らの大きな弱点であった。会津藩士の考えは、戦争即侍同士の戦いだと思っている。配下の農民対策のことなんか、ほとんど進んでいない。既に長州藩は一般大衆から広く人材を集める近代軍隊を擁していた。会津藩士のある者は、農民達に協力を求める時も 「土下座させたまま命令」 している始末である。それを考えれば会津藩の若きリーダー山川大蔵は、あらゆる面で合理的であった。旧幕臣大鳥圭介と組んだ山川は、日光口の防衛に、地元の猟師の協力を取り付ける。猟師隊は、侵攻してきた官軍を鴨のようにばったばったと撃ち倒していった。俊敏に動く獣を仕留めてきた彼らにとって、人間ほどのろい生き物はいない。土佐藩の谷干城隊長が感服するほどの見事な戦いを繰り広げた(後に谷は、山川の存在を知るに及び、彼を明治陸軍にスカウトしたという)。
 農民の会津藩に対する恨みは、ここ数年の過酷な年貢収奪のせいだった。これも結局、松平容保の京都守護職就任のせいである。大勢の藩士が京都へ出張するとなると、それこそ膨大な費用がかかる。領民へ負担がかかるのは必然だった。結局正直者がバカを見た。単純に幕府朝廷に至誠を貫くつもりで出掛けていったら京都の政争に巻き込まれ、賊軍の汚名を着せられた挙句の果てに自分達の国土が戦場となり、疲弊した領民達の怨嗟がさらに藩の首を絞めることとなったのだ。

官軍、母成峠を急襲突破!ついに会津盆地になだれ込む

 いよいよ官軍は母成峠を奇襲突破、鶴ヶ城目指して怒濤の進撃を開始したのだった。会津藩の作戦のまずさは、この非常事態を急報する人材も欠いてることだった。

 官軍の奇襲におののく重臣達は、容保を囲んで軍議を開いた。今更軍議を開くということ自体、この非常事態に何ら策を講じてない証拠でもある。容保は、白河における惨敗の責任を問われて謹慎している西郷頼母を呼び寄せた。重臣のなかの重臣だから呼ばれたのであろうが、実戦経験に乏しい頼母は、またもや難しい場面に引っ張り出されたのである。しかも頼母は頼母で 「ともかく、責任者は切腹するべきでござる」 などとややこしいことを言い出した。この場に及んで切腹うんぬんなどと言ってはおれない。一刻を争う事態なのである。頼母が声を大にして発言すると、京都で苦労した経験のある田中土佐や実戦経験の豊富な佐川官兵衛すら、小さくなってしまうのだ。そもそも鬼の官兵衛とも言われた佐川は、座ってないで戦線で暴れまわってもらう為の男であった。結局、軍議一つとっても彼らは何一つ重要な決断も出来なかったのである。

松平容保、滝沢本陣へ馬を進めるが

 容保は決意した。わたしが自ら城を出て督戦するべきである・・・容保は滝沢峠に本陣を置いて、峠を死守する覚悟だった。もはや藩士は根こそぎ動員されている訳で、城を守るのは白髪まじりの老人達、容保のお供をするのは表情もあどけない少年達だった。この少年達の中に、飯盛山で自刃することになる、白虎二番士中隊の少年達がいた。



 そうこうしてるうち、官軍は日橋川にかかる十六橋に迫った。会津兵らは必死に十六橋の破壊に取り掛かったが、立派な橋で、そう簡単に壊れないとは皮肉なものだ。たちまち橋は官軍に占拠されてしまう。橋だけでない、川のほとりに舟も放置したままとは、あまりにも無策であった。官軍は一気に城下町を目指して進撃したのである。白虎二番士中隊の少年達は、状況もよく分からぬまま、折からの豪雨の中で待機を余儀なくされた。

会津の少年藩士達が学んだ「日新館」〜小学校から大学までの総合学園→写真いろいろあります


↑郊外の山間に、テーマパークとして公開、もちろん映画・ドラマの撮影にも使われている。


↑日新館は、天文台や水練場まで備えていた。ここで少年達は会津士魂を叩き込まれた。

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北条四郎のホームページ〜勝手に会津紀行のコーナー 「幕末会津藩の悲劇」


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