悲惨な籠城戦〜そして会津藩降伏

日光口で活躍の会津藩若手家老「山川大蔵」〜劇的な鶴ヶ城帰還!

 両軍が激戦を展開する最中、突如流れてきた「お囃子」に両軍は思わず戦の手を止めた。聴こえてくる音色は明らかに笛や太鼓で、何だか懐かしいようなお囃子なのである。獅子や神官らしき人、村人らしい人々が行列をつくって練り歩いている。官軍は「懐かしか」「故郷を思い出すけん」と呆気にとられて、この彼岸獅子の行列を見守った。「???」と思ったのは官軍だけではない。近づくものは撃で!と命じられていた籠城側の人々も、意表をつかれた。
 実はこの奇妙な行列は、日光口から急遽応援に来た、山川大蔵率いる一隊であった。戦車や航空機が激突する現代の戦争に比べれば、驚くほどのんびりしたものだが、山川はこの時代の人間心理を読んでいた。二十四歳の若者が、敵味方双方を翻弄するほどの大胆さを持ち合わせている、これには容保や重臣達も驚きを隠せなかった。こうした行動力と直感に長けた若い人々が、会津藩を引っ張って行くことになる。

鶴ヶ城籠城戦〜そして西郷頼母解任

 鶴ヶ城の籠城戦は、過酷なものになりつつあった。鶴ヶ城を完全包囲した官軍は、高地に大砲を設置し、城内に砲弾を浴びせる。負傷者はあちこちに呻いている。男が勝手に始めた戦争を、女達は必死になってその傷口を癒そうとした。城内の負傷者の世話・食事の支度や片付け、およそ人間が生理的に必要とするものを、女達が必死に支えていた。「着物を全て出すのじゃ、あれも出しなさい!」 照姫はてきぱきと女達を指揮する。女達の中には、官軍の砲弾に水をかぶせて処理する者もいた。この危険極まる作業で、多くの者が吹き飛ばされた。
 女達が奮戦しているというのに、男共は役立たずだった。重臣となると、足の引っ張り合いしかしておらぬではないか。西郷頼母は、殿も重臣も切腹するべきでござる!とわめく。梶原平馬や原田対馬ら若手が、和睦の可能性について言及すると、頼母の激昂はさらに激しいものになった。「今日の事態を憂慮して、あれほど京都守護職就任に反対したのでござる!それを裏切り者扱いしおって、今度は何だ!手のひらを返したように和睦か?このたわけが!」
 頼母の怒りはもっともであった。京都守護職に反対したのも、早期恭順を唱えたのも、全ては藩の安泰を第一に考えてのことだった。確かに頼母の想定はことごとく当たっていたことになる。そうは言っても、現時点で何をどうするかの議論をせねばならなかった。若手が善後策を必死に考えている訳だし、こうした努力も汲むべきであった。西郷の激昂は、藩内の結束にひびを入れた。重臣達が、感情論でののしりあっている間に、官軍は大砲でどんどん撃ってくる。藩士や家族達も、次々に斃れているのだ。
 ついに容保は頼母を呼んだ。「越後より帰陣の将へ伝えよ。城内に合流せず、そのまま現地で戦うこと」〜伝令なら、何も頼母ほどの家老でなくても出来る仕事だった。事実上の解任通告だった。
 既に多くの家族も失った頼母、明らかに生まれてくる時代を間違えた彼は、後姿も寂しく会津から去って行った。

万事休す〜御三家まで裏切ったとなれば〜

 既に会津若松は、数万の軍勢に埋め尽くされていた。勝ち馬に乗って我もわれもと参戦してくる、全ては四面楚歌の状況であった。こともあろうに第十四代将軍の出自たる御三家の紀州までもが裏切っていた。会津の人達にすれば、このバカ山藩の醜態は理解できぬだろう。御三家筆頭の尾州は、しっぽどころか越後戦線で長州軍の先鋒をつかまつってごじゃるのだ。「外様」たる仙台や米沢・南部などが律儀に戦っているというのに。
 徳川に大した義理もない、仙台や米沢各藩も恭順論が台頭してくるのは当然のことだった。

 会津から来る使者に、米沢藩は「もう援軍を出すのは無理だ」と言い放った。それどころか、米沢藩は官軍から会津攻撃を強要されようとしている。夷をもって夷を制す、卑怯な薩長新政府の刃が、喉元につきつけられていた。米沢藩としては、一日でも会津に開城して欲しかった。友邦会津を攻撃するなどと、上杉斉憲としては絶対に避けたいことなのだ。米沢藩では、援軍を頼みに来た会津藩士達に、逆に降伏を勧めるに至った。
 終戦工作があわただしく始まっていた。薩長の現地部隊は、終戦に関するシュミレーションなど持ってない。鶴ヶ城を砲撃でめった撃ちにして、会津藩主従を殺すことしか念頭になかった。会津はあのとおり狂信的だから、君臣共々討ち死にするまで戦うだろうという、あやふやな想定しか無かった。
 米沢藩を経由した終戦工作は、土佐藩の板垣退助を動かした。まさか容保の首を差し出せい!では戦争は終わらない。薩長がのめるギリギリの線で何とかならんものか・・・板垣は、容保斬首を引っ込めた条件を出した。これは板垣の独断ではなく、西郷隆盛ら薩長首脳で内々に暖めていた「第二案」だったようだ。


↑参謀板垣退助、日光を戦火から救った功績などを評価されている。

 鶴ヶ城内は、降伏の是非について議論が沸騰した。多くの者は、城を枕に討ち死にの覚悟であった。しかしながら城内の人々の疲労は限界に達している。多くの者が傷つき、まともな手当も施されないまま横たわっていた。降伏の決意を示したのは、梶原平馬や山川大蔵、そして容保であった。これ以上犠牲を増やすことは、もはや責任ある行動とは言えない。鶴ヶ城の威容は、官軍の砲撃で原型をとどめないほどに破壊されていた。いや、よくここまで持ちこたえたと、官軍側が呆気に取られたほど、彼らは会津武士の意地と誇りを見せ付けたのだ。

ついに会津藩降伏〜屈辱の降伏式

 明治元年9月21日、両軍の交戦は止んだ。翌22日、鶴ヶ城内に「降参」と大きく書いた白旗が掲げられる。城内は、白い大きな布さえ確保できず、敵側である土佐藩から譲り受ける有様であった。いよいよ降伏式典となり、松平容保は降伏文書を携えて、甲賀町の式場に現れた。会津藩主従は、ここで改めて敗北の苦い現実を思い知らされた。
 官軍側は、薩摩藩の軍監中村半次郎・長州藩の軍曹山県小太郎らが、官軍側全権として乗り込んで来る。会津側は、板垣や、長州藩のもっと有名どころが出しゃばってくるのかと思い込んでいたので意表を突かれた。世が世なれば中村なにがしごときが、会津中将の前に出てこれるはずは無い。それなのに不遜なる態度でふんぞり返っているのだ。みんな屈辱のあまり身も震えるばかりの会津藩主従であった。
 身が震えているのは中村も同じであった。この時何が起きたのかを、彼は後に正直に語っている。それによると「ぼくは人は斬ってきたが、このとおり勉強が駄目なもんだから・・・会津の殿様が出した書状、なんて書いてあんのかさっぱり分からず、卒倒するかと思った」という。
 錦旗さえ揚げていなかったら、ろくに字も読めない強盗団のごとき「西軍」にひれ伏さなければならぬ屈辱は無かったろうと、ひたすら嗚咽を抑える会津藩主従であった。



▼▼ 白虎隊に八重の桜〜幕末の熱いドラマをお届け ▼▼

   

→次ページ:阿弥陀寺を訪ねる〜死者の怨念が響くような雰囲気

北条四郎のホームページ〜勝手に会津紀行のコーナー 「幕末会津藩の悲劇」


.
copyright (c) 2007 hojyo-shiro. All Rights Reserved.
inserted by FC2 system