
元治元年(1864年)のうだるような京都の夏、再び天下を揺るがす事件が起きようとしていた。長州藩は、最精鋭の軍隊を京都に向けて出発させたのである。前年の8.18政変によって京都から追い払われた長州藩は、例の三条実美らを擁して再び京都を目指した。攘夷を断固として決行し、天皇御親征を訴えるべく行動を起こした、というのが彼らの主張である。長州藩は哀願書なるものを朝廷に提出したが、幕府側から見れば強訴としか考えられなかった。長州藩の物々しい武装を見れば、これで強訴でなければ何であろう。
京都守護職松平容保は病床の身であった。元々体は丈夫ではない。病気がちの彼を支えているのは孝明天皇のご信任ただ一つなのである。
「長州藩が来るか、参内せねばならぬ!」
殿!そのお体では無理です!という近臣を振り切っての参内に、孝明天皇におかれては、おそれおおくも 「容保、庭まで籠に乗ったままでよいぞ」 とのお言葉が届けられた。感涙にむせぶ容保だが、さすがに庭までタクシーで乗り付ける訳にはぬ・・・と玄関で下りて、両腕を家臣に抱えられての参内となった。こうした光景を誰もが好意的に見ていた訳ではない。むしろ嫉妬やねたみを持つ者も多くいた。長州とツーカーになっておじゃるお公家さんらは、「あんな不敬な輩は弾劾せなあきまへん」 と足を引っ張ろうとするのだ。朝議では、長州藩に肩入れする人々が 「何とか穏便にできまへんか」 と図ったが、一ツ橋慶喜は断固としてはねつけた。武装兵多数をもって強訴とは言語道断だと、優柔不断な慶喜にしては珍しい態度であった。生身の人間同士の信頼を武力でぶち壊そうとする彼らに、ついに勅は下った。

既に長州藩と京都を守備する彦根・大垣諸藩との交戦が始まっている。会津藩士達は蛤御門で長州藩兵を待ち受けた。長州藩は新式の銃で撃ちまくってくる。攘夷と言いながら、なぜか洋式の銃をふんだんに持っているのだ。会津藩士達は 「飛び道具は卑怯なり」 と突撃する。「エイ・ヤア」 式の武術を披露する会津藩士達に、長州軍はゲリラ戦で応えた。蛤門の激戦で、会津藩士達はかろうじて長州藩兵の撃退に成功する。会津藩の武器はどれも古くさい代物だったが、宮中へ砲撃を加える長州に対する憤怒が全てを支えていた。
形勢をじっと睨んでいた薩摩藩の西郷隆盛は、ついに動き出した。政治というのはいい加減で、形勢次第でどっちに転ぶか分かったもんじゃない。既に長州藩の行動が、「暴挙」 「悪あがき」 に等しいことを確認した上で、薩摩は動いているような雰囲気であった。しかしながら薩摩藩兵が救援に押し寄せると、その威力たるやすさまじいものだ。長州藩は総崩れになった。
長州藩は京都での激戦で敗走した。宮中へ砲撃を加え、あわよくば天皇を奪って一気に事態を打開しようという腹だった。そもそも一つの藩が勝手に武装兵を進軍させ、京都へ乗り込んでくるということ自体、天下を騒乱に陥れる行為であり、許されない。狂ってるとしか言いようが無かった。ここまでの暴挙を許したのは、無論幕府の力の減退もあろう。それに乗じて不逞浪士にテロを煽り、そそのかした三条実美などの連中の性でもあった。

禁中へ砲撃の挙に出た長州藩への征伐が、勅命として出た。もちろん容保は断固として長州を打倒する決意である。骨を折って京都の治安維持に奔走していた立場の人間にとって、それは当然の発想だった。ところが〜勅命が出ても諸藩の動きが鈍い。そもそも将軍家茂がまごまごしていた。征長総督の任免ももたつき、しかも将軍その人が出陣する気配がない。征長総督徳川慶勝も、さっぱりやる気が無かった。長州側が恭順の意を示すと 「ああそうか」 で終わってしまったのである。天下泰平の世とは、のどかなものだ。徳川の家門ながら、まるで他人事とは。それで会津の田舎藩主が天皇のご信任を得て一人ではしゃいでおる、偉くなったなあ、と幕府は白い目で見る始末である。もはや朽ちた巨船は沈没する運命しかない。一人至誠を貫こうとした容保一人がバカを見る運命にあったのである。
会津の田舎町で育った朴訥な彼らに、西国諸藩の目まぐるしい動きは理解できなかった。みんなで日新館に通って机を同じくしてお勉強しながら育ってきた彼らは、もちろん長州藩のように、藩士同士で血で血を争うヘゲモニー争いを繰り広げるサマも理解できない。どこまでも将軍家を補佐申し上げるのが我らの責務だと頑なに信じている彼らは、情勢によってころころ態度を変える薩摩や長州藩のことなど全く理解できなかった。
長州藩は、8.18政変以来、あれほどまで憎んでいた薩摩藩との同盟を密約した。京都の大勢のシンパ公暁や、混乱に乗じて出世しようとする浪人の支援あっても、もはや一藩で倒幕に突き進むことの無謀さを悟った訳だ。いくらお調子者でもメンツはある。薩摩も長州も 「これまでの話は水に流して同盟しようよ」 と自分からは言い出せない。自分がまずかわいい訳だ。メンツを盾にムキになる両雄の間柄を取り持って、さらに名を上げるお調子者が出てくる。坂本龍馬である。世の中、いい時に利用のしがいのあるお調子者が出てくる。
長州藩は、あれだけ攘夷だ攘夷だと外国船を砲撃したりして騒いでいたが、ころっと態度を変えていた。高杉晋作は、あっさりと四国連合艦隊と講和して下関を開港してしまった。さらにイギリスと組んで優秀な武器をどんどん購入している。
第二次長州征伐に向かった幕府軍は、これら優秀な装備を持った長州藩兵らに圧倒された。戦争屋大村益次郎の暗躍で、長州軍は西洋式の軍隊に姿を変えていたのだ。高杉晋作率いる奇兵隊も存分の活躍を見せた。御一新あれば年貢が安くなる、と口車に乗せられて、大勢の農民が奇兵隊に入隊したのだ(もちろん彼らは裏切られたことを知り、明治維新後暴動を起こす。木戸孝允は彼らを徹底的に弾圧、首謀者は斬首され、死体は井戸にぶん投げられたとされる)。
ついてない時は何をやってもうまくいかない。この大事な時に将軍家茂が大坂城で死んだ。これで幕府側の士気は一気に落ちた。第二次征長は完全な失敗に終わったのである。