王政復古の大号令



↑第15代将軍慶喜の宿所でもあった二条城

最後の将軍慶喜〜政権をあっさり朝廷に返上

 岩倉具視や大久保利通はあせった。優柔不断で有名な慶喜はヘンなところで決断が早い。朝廷は、新たな公議政体を創設すべく、各藩に上洛を命じている。徳川氏を筆頭に、雄藩の協力協賛のもとに会議を広く行い、よりよい政治を目指そうという二条摂政らの取り計らいがあった(もちろん孝明天皇のご遺志に基づくものである)。このまま進めば、一滴の血も流れずに新しい日本国が生まれるはずだったが、そんなことをされては岩倉らは権力にありつけない。岩倉ら討幕派は、明治天皇を抱きこんで親徳川派の二条摂政を追っ払う策に出た。
 1868年1月3日、薩摩藩兵らは京都御所を封鎖した。二条摂政が御所に戻ろうとすると、失せろ!そんな職は廃止だ!と武装兵に制止される。クーデターは成功した。意気揚々と参内する岩倉〜邪魔者去って、王政復古の大号令は下されたのだ。



↑小御所会議は紛糾を極める

 続いて行われた小御所会議は紛糾した。あの山内容堂が黙っている訳はない。なぜこの重要な会議で慶喜が居ないのだ?おかしいじゃないか。おかしいのは幼い陛下をダシにして一部の公家風情が陰謀を企ててることだ!と声を大にして発言した。岩倉は、これは天子様のお考えに基づくものだ。おそれおおくも天子様をガキ扱いするのか!と恫喝する。背後で西郷ら薩摩藩士が控えていた。西郷は、刺し違えてもよか!と威圧する。ガタガタぬかすとぶっ殺すぞ!という脅迫に容堂は沈黙するしかない。容堂も、軽輩の言うことを聞かねば命の保証もないのだ。御所内の人々は人質のようなものだった。



↑激昂する会津桑名勢が薩長と衝突するのを避ける為、慶喜は二条城を捨てて大坂城へ向かうよう命じた。

将軍慶喜〜薩摩藩の挑発に乗せられる

 江戸市中は混乱していた。強盗・強姦・放火・殺し、とにかく凶悪事件が頻発している。欧米各国の大都市が、糞尿にまみれ、犯罪の巣窟だったことに比べ、江戸市中は世界で最も清潔で治安のいい都市であったろう。ところが最近起こる事件のたぐいは、町方役人では手に負えなくなっている。江戸は無政府状態に近く、市中取締りの庄内藩士達は右往左往した。暴漢はピストルまで持っていて、反対に詰め所を銃撃される始末である。
 「カネをやるから、暴れるだけ暴れろ」〜薩摩藩邸では、目つきのあやしいちんぴらを集めては、暴動を煽っていた。幕府は驚愕する。薩摩の力を意識してか、まずは交渉を持つこととなった。藩邸に匿ってるちんぴら共を引き渡せと。もちろん薩摩は協力する気なんてなかった。幕府を怒らせ、戦争に持ち込む腹である。交渉が決裂し、ついに庄内藩は薩摩藩邸への総攻撃を開始したのだ。



↑ガハハハ、ここまでやってくれたらこっちのもんだ、てか?

 江戸における騒乱は、ただちに大坂城の慶喜へ伝えられる。おのれ薩摩め!・・・慶喜は、薩摩の挑発に見事に乗せられた。既に京都は薩長軍に占領されている。「断固薩摩を討つ!」〜慶喜は兵を率いて上京する覚悟を決めた。東西を二分する、悲劇の戊辰戦争が幕を開けようとしていた。→鳥羽・伏見界隈の写真集が出来ました。

戊辰戦争勃発〜待ってましたとばかりに錦旗の密造にかかる岩倉・大久保

 薩摩の西郷は確信していた。慶喜が「討薩表」を掲げて京都に進軍してくることを。さて、薩摩の挑発に乗った慶喜だが、京都へ進軍するに当たっては慎重を期すよう各隊に命令していた。あくまで君側の奸を斥けんがための、やむを得ない行動であり、それ以上のものであってはならないのだ。ところが薩摩藩の一隊が放った砲弾で両軍はたちまち激突した。鳥羽・伏見の戦いが幕を開けたのだ。

 ここまでドンパチやれば十分だった。岩倉は天皇に言った。「旧幕府並びに会津・桑名の連中が、御所を襲撃焼き討ち仕ろうとしております。ただちに征討軍の編成を!」これで終わりだ。朝敵征伐の大義名分が立ったのだ。全ては岩倉・三条実美・西郷・大久保の描いている通りに進んだ。天皇を抱きこんじまえばこっちのもんだと。早乙女先生によると、幕軍の砲声が意外に盛んなので、狼狽した大久保などは「もしもの時は『玉』をどーする?」「女装させて山陰道にお連れしろ!」・・・もう少しで天皇は女装までさせられる寸前だったんだとか。
 この事態に山内容堂が烈火のごとく怒った。傍から見たら、この戦いは薩摩と徳川の私的な喧嘩にしか見えない。早乙女先生によると、薩摩藩や岩倉の不当ぶりを声を大にして発言する容堂に、岩倉はピストルを取り出して小突くまねを晒したという(ほんまかいな!)。土佐藩を引っ張る板垣退助はもちろん、そんなことを知らない。「朝敵征伐」の勅が出た以上、板垣も薩長連合軍に加担する他はなかった。

慶喜〜いきなり逃亡を決意

 禁門の変以来、会津は官軍であった。官軍である以前に幕軍であり、将軍を差し置いて天皇様の軍を標榜することは出来ない。それが武士というものだが、今や薩長の軽輩が、賭場で銭を稼いでた公家風情と共に錦旗を密造し、この旗が目に入らぬか!従わぬは逆賊ぞ、などと子供だましもいいところだ。ところが幕軍は、布切れをただの布だと見抜けなかった。大坂城にいた慶喜はいきなり「余は江戸に帰る!」と言いだした。傍らに控えている容保は言葉に詰まった。
「肥後、余についてまいれ!」「上様!おそれながら・・・」「控えぃ!そちは余の命を聞かぬのか!」
 どこまでも慶喜様をお守り申し上げたい!という忠誠の士達は、パニックに陥っていた。帝には歯向かえぬ!俺達はどーすりゃいい!と。容保は苦悩した。人間稼業とはこうまでつらいものだとは。しかし容保は「ははーっ!」と一言あるのみだ。将軍あっての松平容保である。断りきれない人の良さはいつも裏目に出た。
 大坂から軍艦で逃げ帰るのである。敵前逃亡をするのだ。容保は、亡き孝明天皇の宸翰を握り締めて号泣する。天皇様から直筆の感状まで得た男が、おもちゃの御旗に追われる身とは!これを悪夢と言わずして何であろう!


 旧幕府側の最後の拠点大坂城が、既に主なき空城であることが伝わると共に、取り残された会津藩士達の、苦難の逃避行が始まった。薩長軍は、大坂市中に雪崩をうって殺到した。旧幕府軍で逃げ遅れた者はことごとく惨殺される。天下の台所を手中にした「新政府軍」は、江戸に向けて怒涛の進軍を開始したのである。



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