彰義隊敗北〜輪王寺宮様、東北へ脱出

輪王寺宮様、慶喜の謝罪歎願の為にご出立されるが

 慶喜は全ての責任を放棄し、上野寛永寺にこもっていた。この寛永寺の住持は代々、輪王寺宮と称される。輪王寺宮ということは天皇の皇子がお寺の管理をするということで、朝幕のお付き合いの関係を現している。執権北条氏は将軍を皇子にやってもらい、徳川幕府は、お寺の統括を皇子にやってもらうことで、両者の共生を図ったのである。輪王寺宮におかれては、あらゆる方面からの歎願により、慶喜の謝罪歎願の為に出発されることになった。東征大総督は同じ宮様である。こちらからも宮様に出ていただけると、せめて互角に話ができるのではないか、という考えがあった。駿府で総督有栖川宮との会談が実現したが、有栖川宮におかれては、既に西郷の助言無しに何も言えないでおられる。総督に担ぎ上げられ、利用されているだけなのだ。輪王寺宮もまた、既に足元を見られてしまっており、交渉どころか、けんもほほろに追い返されてしまったのである。

ついに江戸開城

 薩長を主力とする東征軍はついに江戸総攻撃の態勢を整えた。華のお江戸が火の海になるところを、勝海舟が西郷に直談判に及んだ。舌だけ達者な勝に西郷は 「勝先生にはかないもはん!」と太っ腹なところを見せる。両者が江戸を救った英雄のように祭り上げられることになったが、「江戸を火の海にするな」というイギリスの無言の圧力があったまでだ。薩摩藩に大量の武器を売って大儲けをし、旧幕府側のフランス勢力を一掃したいイギリスの狡猾極まる干渉だった。



 ついに江戸城は開城した。旧幕府陸軍を率いる大鳥圭介は下総へ脱出し、江戸で実力部隊と言えるものは彰義隊のみである。既に慶喜が水戸へ逃亡してしまい、彼らが仰ぐのは輪王寺宮その人であった。西郷にとって、輪王寺宮を駿府で追い返したことは失敗だった。あのまま誘拐してしまえば、旗本連中が宮をかつぎ上げることも出来なかっただろう。

野卑な官軍に江戸市民は激怒

 無銭飲食はする、商家に押し入って器物を持ち去る、女とみれば陵辱しようとする、官軍の横暴ぶりに江戸市民は激怒した。何が天朝さまの軍だ!この芋侍!盗っ人!〜人が困っているとなると、じっとしておれないのが江戸っ子だ。乱暴する官兵につかみかかった男は反対に斬って捨てられた。
 それにくらべて彰義隊士はカネの使いっぷりも見事だ。どうせ死ぬかもしれないからヤケクソだし、宵越のカネは持たねぇ式の江戸っ子が多い。女郎達も野暮な官兵にゃ愛想が尽きていたが、彰義隊士はもてた。明治以降の「冨と権力の集中する東京」とは一風異なる、方言と独特の文化を持った華のお江戸の時代である。「いろ(情夫)にもつなら彰義隊」とまで言われた彼らは、江戸っ子の意地を象徴していた。彰義隊士はあちこちで官兵と衝突する。羽織をしゃんと着込んだ隊士が黒ずくめのイモ侍を斬ったとなると、江戸市民からやんやの喝采を浴びる。もう総督府の威信は丸つぶれだ。
 彰義隊は暴徒だ!みんなやっつけろ!総督府は彰義隊つぶしに動いた。江戸開城で男を上げた勝海舟も、彰義隊解散を勧告する。勝という男は既にどっちの味方なのか分からない。官軍は戦争屋大村益次郎を呼び寄せた。懐から懐中時計を取り出して気取ってやがる戦争屋の出番である。


彰義隊敗北、輪王寺宮御退去される

 いよいよ奴らがくる!と上野の山に立て籠もる隊士達。だんな!柵はこんなもんでよーござんすか?と威勢のいい江戸っ子が陣地構築を手伝いにくる。お節介が大好きなのだ。華のお江戸もいよいよ最後の日を迎えようとしていた。江戸っ子の意地も気風も、勝てば官軍の威力の前に消え去ろうとしている。大村益次郎は、完璧な配置をもって上野総攻撃を命令したのである。
 官軍大砲の一斉射撃で上野の戦いは始まった。寛永寺に突入した官軍は、彰義隊士の気迫に押される場面もあったが、所詮大村益次郎の計算の範囲内であったに過ぎない。官軍の持つ大砲は絶大な効果を発揮した。砲弾は輪王寺宮がいらっしゃる本坊にも飛んでくる。宮は、わたしだけが安穏としている訳には・・・と退去を固辞したが、宮にもしものことがあったら隊士達が困るから!と側近に説得されて、ついに御退去されることとなった。隊士が大勢詰め掛けて「我もお供を!」と騒然となったが、お忍びで御退去される方が安全だ!みんなで勝手にかついでしまった宮様に、これ以上ご迷惑をかけるな!ということになった。宮におかれては榎本率いる旧幕府艦隊に保護され、東北へ向かうこととなる。
 早朝開始された総攻撃は午後には終わった。生き残った彰義隊士は散り散りになって逃げていく。これから始まる会津をめぐる戦い、函館の最後の戦いまで・・・隊士達の前には長い長い苦難の道が待ち構えていた。



↑西郷像の近くにある彰義隊士の墓、この界隈も激戦が行われた。


↑写真左側は、当時の弾痕が残る旧本坊表門(輪王殿の門)。写真右側は、これまた弾痕がすさまじいまでに残る黒門(円通寺境内に移築されたもの)。この円通寺というお寺、当時の住職が斬首覚悟で彰義隊戦死者を供養したことから、明治時代も幕府軍戦死者を堂々と供養できたという大変ありがたいお寺。佐幕派必見のスポットと言えよう。

北の丸公園に輪王寺宮様(後の北白川宮能久親王)の像を見てきました

 北の丸公園の一角に、旧近衛師団司令部(現:東京国立近代美術館工芸館)があるが、その隣に輪王寺宮様の像がある。この宮様の生涯は波瀾に満ちている。後に奥羽越列藩同盟の盟主になられ、列藩同盟崩壊後は謹慎させられた。明治3年にドイツ留学。そこでドイツ婦人と結婚しようとするが、岩倉具視めによって妨害され挫折。またまた謹慎させられた。最後は近衛師団長として台湾へ出征、現地でマラリアに感染し、非業の死を遂げるのである。

 旧近衛師団司令部の建物は重厚で美しい。宮様の経歴を説明したパネルがあるが、彰義隊云々、列藩同盟云々、ドイツ婦人との結婚云々など、もちろん書かれていない。



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