新幹線やまびこ号(白石蔵王駅)市街地に佇む白石城東口門

宮城県白石市〜白石城そして世良修蔵の墓

悪魔の使者現る〜世良修蔵・大山格乃助の横暴

 夷をもって夷を制す〜薩長新政府の卑劣な刃が、仙台藩に向けられていた。ただちに朝賊会津を討てぃ!と「命令」してきたのである。伊達慶邦は当初、意に介さなかった。伊達は、まさか会津のように徳川殿を命をかけてまで助ける義務は無いが、薩長ごときにあれこれ命令される筋合いもなかった。藩祖正宗の独眼が背後で睨みを利かせている。伊達に藩主をやってる訳じゃない。東北の雄藩としての誇りとプライドがある。それに対して偉そうに指図なんかしおって。
 西軍の行動の素早さは、鈍い東北人の意識をはるかに超えていた。九条道孝奥羽鎮撫(何を偉そうに)総督以下、薩長軍が軍艦で仙台に乗り込んできたのだ。総督はただの歌詠み公卿に過ぎず、薩摩の大山格乃助、長州の世良修蔵に牛耳られていた。配下の兵達も「おれは官軍だ!」「勝てば官軍だ!」と肩をいからせて上陸してきたのだ。大山・世良らは、となりに停泊してる貨物船へつかつか歩いていく。船主は幕府の許可を受けて営業していると答えた。「というこたァお前らは賊だ!」「やっちまえ!」兵達は鉄砲で船員を殴りつけ、荷物を分捕っていく。案内役の仙台藩士は怒りと屈辱に震えた。何が錦旗だ!何が官軍だ!この盗賊めが!

仙台藩・米沢藩の呼びかけに奥羽列藩が白石に集まる

 伊達慶邦はじっとこらえた。たとえチンピラでも天朝様の軍である。礼を尽くして迎えねばならん。ところが大山と世良は横柄な態度で上座から会津追討を命令した。仙台藩が大山と世良を花見に接待した時の、彼らの醜態は目を覆うばかりだ。芸妓を抱き寄せては「東北人なんかへっちゃらサ」という意味に取れる下品な歌を唄って、やりたい放題だ。
 仙台藩は真っ二つに割れた。「こんな奴らはけしからん、協力する必要などない!」「いいや、藩のためなら協力はやむを得ない・・・」仙台における官軍の横柄な態度に、藩士も領民も怒りを募らせる。大山や世良は東北人をバカにしていた。保守的で頑迷で、もごもごと言ってることも要領を得ない。さっさと会津攻撃に兵隊を出せって言っちょるのにもたもたしやがって!
 仙台だけではない。東北の諸藩も特に会津藩や庄内藩を討たねばならぬ理由がなかった。それなのに大山と世良は無理に戦争を我々に強要する。何とか会津や庄内さんの赦免歎願を「鎮撫総督」とやらへ取り次ごう、多くの者が戦争回避の為に奔走した。むろん仙台藩も一筋縄に会津びいきではない。それはそれで身内の説得に奔走したりする。ついに奥羽諸藩の人々が白石に集まり、嘆願書提出までこぎつけた。

白石城〜維新史の渦中に

白石城内の光景

女と寝てた世良、ついに捕らえられる

 総督府は、奥羽十四藩による嘆願をあっさり却下した。とにかく大山や世良が総督府のお言葉である。最初から会津や庄内藩をやっつける為に来ている訳だ。東北の人達は、彼らの異様な執念と戦争趣味を理解できなかった。世良は世良で、東北人も怒りが昂じれば行動に出るということを理解していない。あいつらに何が出来る、とバカにしているのだ。彼は大山に手紙を書いた。会津の入れ知恵だか知らんが嘆願書をよこしおった。仙台も米沢も兵隊は弱虫のクセに、朝廷を軽んじてる。東北の人間はみんな敵と見て、新たに反撃作戦を考えたい。まぁ仙台も賊徒は数人で、主人は好人物らしいがの。じゃよろしく、と。
 この手紙は仙台藩士瀬上主膳や姉歯武之進らに渡った。「東北人はみな敵」だとよ・・・彼らは激昂し、世良の居る福島は金沢屋へ向かった。金沢屋で世良は女と寝ていることも分かっている。女郎の膝枕でごろ寝しながら戦争指導とは、東北人を心底ナメてかかっていた。世良は召し取られ、仙台藩士に河原にて斬首されるのである。

世良修蔵の墓〜「為賊」という文字を後から削ったそうです



白石川の光景

 世良を討った仙台藩は、皮肉にも会津に代わって薩長軍に宣戦布告したようなものだった。かくして仙台藩は、奥羽越列藩同盟の結成に、その中心的な役割をはたすことになるのだ。東北諸藩のほとんどを組み込んだ大同盟の結成に、薩長新政府は驚愕した。



↑武家屋敷の点在する白石〜南部藩が秋田戦争敗北後一時期移封された。


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北条四郎のホームページ〜「幕末会津藩の悲劇」


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