江戸城に登城!

江戸城の本丸

 江戸城という言葉は「死語」らしい。ネットで「江戸城」と検索してみたら、ソープランドのホームページに入ってしまったことがある。現在では「皇居東御苑」というのが正しい。全て宮内庁の敷地であり、あくまで皇居の一角なのである。旧江戸城がいかに広大な敷地だったかが分かる。
 桜の開花も間近のある日、大手門から入城した。後ろから「パカパカ・パカパカ」とお馬さんの音が。何と皇宮警察の騎馬隊である。急いでデジカメ持って駆けつけたが、お馬さんの脚は速い。かろうじて最後の数騎だけ写真に入った。雰囲気は完全に「皇居」だなあ。

 宮内庁三の丸尚蔵館を過ぎると百人番所に着く(写真左)。本丸・二の丸へ続く大手三之門を警護していた門。鉄砲百人組と呼ばれる甲賀組・伊賀組・根来組・二十五騎組の同心100人が交代で警護に当たったという。逆光で写真が見えにくくてすいません。さらに坂を登ると同心番所に着く(写真右)。同心が江戸城へ登城する大名の供を監視した。以前はこの番所の前に橋があり、御三家を除くすべての大名はここで乗り物から降りて徒歩で本丸へ登ったという。


↑松の木が鮮やか・・・松の大廊下跡は石碑が建ってるだけだった。

 本丸跡地〜本丸の天守閣は、何度も改良が重ねられた。家光の時代には58メートルの高さを誇る、当時としては超高層建築物だったという。ところが後の大火事であっさり焼失。すぐさま再建案が出たが、ここで保科正之(家光の弟で会津松平藩主)の猛反対により再建は断念されたという。天下泰平の世に物々しい天守閣など不要、そんなカネがあったら江戸市中の復興事業にでも使え、と。江戸が八百八町の世界一の大都会となって繁栄を極めたのも、このような民活の精神からであろう。以後、江戸城に天守閣は二度と現れなかった。

江戸城〜二の丸庭園

 江戸城本丸から降りていく。天守閣焼失後、富士見櫓という建物が天守閣代わりをしていたそうだが、時間の関係で富士見櫓を見ることが出来なかった。

二の丸庭園

 帰りに二の丸庭園を見ていく。諏訪の茶屋付近の庭園は、よく手入れがされていた。外国人観光客のみなさんも熱心に見学している。東京のど真ん中にいるのが信じられないくらい静か・・・。前将軍の側室などが晩年を過ごしたとされる。本丸から一段下ったこの場所で淋しく余生を過ごしたのであろうか。


↑ここでも松の木が鮮やか・・・東京都心で最ものんびりしたスポットではないだろうか。

 北桔橋門(きたはねはしもん)から外に出た。この橋は、通行の遮断ができる。大奥に近い重要拠点なので、つくりが厳重なのだ。この石垣を見て、どうやって攻めて行けばいいか悩んでしまう(笑)。天守閣が健在だったら、さぞかしすごい眺めだったのだろう。



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北条四郎のホームページ〜「幕末会津藩の悲劇」


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