ドイツ国防軍の最後

スターリングラード攻防戦〜第2次大戦の転換期

 1942年9月、スターリングラード=スターリンの街へ突入したドイツ軍は、現地部隊と凄惨な市街戦を展開した。スターリンによって死守を厳命されたソ連軍の抵抗は凄まじく、ドイツ軍の死者は増大した。市街戦という性質が、戦車を中心とした装甲師団の電撃戦になじまないものだけに、ドイツ歩兵部隊は建物の1つ、建物の部屋の1つをめぐってソ連軍と激闘を展開したのである。

ソ連軍の大反撃〜マインシュタイン元帥の戦略も太刀打ちできず

 ソ連軍は、ドイツ軍がスターリングラード市街で苦戦しているスキを逃さなかった。折からの悪天候の最中に反撃を開始、市内の第6軍を完全包囲したのである。1942年の11月19日、ロシアの冬もとっくに到来していた。
 ドイツ軍は第6軍を救援すべく、世界で最も優秀とされるマインシュタイン元帥の指揮のもと、反撃を開始した。だが、ヒトラーは信じられない命令を出す。第6軍の市街からの脱出を禁じたのである。救援軍は、包囲陣から数十キロまで迫ったが、そこまでだった。押し寄せる寒波、不足する食料、第6軍の兵士達は次々と倒れていくのであった。1943年2月にソ連軍に降伏したのは約9万人、既に3人に2人が死亡していた。しかも、ソ連軍は無抵抗の捕虜に対しても容赦はしなかった。絶え間ない虐待と強制労働のため、生きて故郷に帰れた者はわずか数千人に満たなかったのである。まさに殲滅戦争、皆殺しの戦争であった。

質・量ともに圧倒するソ連〜闘いの趨勢は決まる

 スターリングラード以降、ソ連軍の優勢は確実となった。いかに兵士の質においてドイツ軍が勝っていても、マインシュタイン元帥が優秀であっても、ソ連軍の圧倒的物量にはかなわない。ソ連軍は質においてもドイツ側に追いついてきた。例えば戦車の質、ソ連軍はT−34という優れた戦車開発に成功する。ロシアの砂利道でも対応できるキャタピラ、ドイツ戦車を圧倒する砲撃威力。ドイツ技術陣もすぐにこれに対応した。ティーゲルやパンテル戦車など、連合軍戦車を一撃で吹き飛ばせる強力な戦車を相次いで登場させる。これらは技術において優れた面はあった。しかしながらドイツ製の機材は、あまりに精密過ぎ、凝り過ぎな面があったようである。
 クルスク会戦で、ドイツ軍にティーゲル戦車が供給されたが、現地部隊は故障の頻発に手を焼いた。せっかくの優秀な機材も故障してはたまらない。テストコースでの試運転はうまくいっても、実戦への投入はそれとイコールではない。それ以外にも、故障の修理をどうするのか、付属品はすぐ揃えられるのか、揃えられないなら別の部品で代用できるのか、こうした問題にドイツ製の凝り過ぎた戦車は対応できなかったようである。ドイツ軍は、工芸品のような機能美に満ちた戦車や航空機で圧倒的な連合軍を迎え撃つこととなった。

負け戦にもかかわらず続けられたホロコースト

 ソ連軍が、プロイセン国境まで進軍するに及んで、もはや誰の目にもドイツの敗退は明らかであった。にもかかわらず、親衛隊長ヒムラーの元、SS部隊はユダヤ人の虐殺をやめることはなかった。東洋人にはさっぱり理解しかねる「ユダヤ人問題」、我々がその意味を理解することは極めて困難だ。
 そもそもユダヤ人という人種など存在しないことに注意するべきである。ユダヤ人=人種と観念されるようになったのはナポレオン時代からのこと。国民国家だの民族自決だのという概念が中世に無かったことを考えると、ユダヤ人種、という意味付けは後世の後知恵にほかならない。

名誉あるドイツ軍人であろうとした人、そして知らんふりをした人・・・

 東部戦線を指揮したマインシュタイン元帥に仕えた副官は、ナチの規定でギリギリ非ユダヤ人とされた。元帥自身も「私のルーツもユダヤ人の血が混じっているかもしれない」と告白しており、お互い上流階級出身であることから、副官は元帥の行動に密かな期待を抱いていた。
 ところが元帥は、ユダヤ人虐殺行為が行われているのを認識しているにもかかわらず、はっきりした態度を示そうとはしなかった。副官の彼の失望は相当なものだったろう。副官だけではない。第11軍司令部勤務ウルリヒ・グンツェルト大尉は、SS部隊の残忍な行動について元帥に報告したが、逆にこのことを口外するなと命じられ「責任逃れもいいとこだ」と憤慨したという。
 ここに、国防軍という組織の偽善ぶりを垣間見ることができる。SS部隊では手が回らず、国防軍の部隊が処刑を手伝うこともザラに行われていた。元帥には、そのことについてヒトラーに直言する責任や資格がもちろんあった。ユダヤ人だけでなく、ロシア兵捕虜の悲惨な末期、対パルチザン作戦の一環として行われた住民の大量処刑、看過しただけでも十分に犯罪であるはずだった。でも彼らは何もしなかった。
 (さらに一言付け加えるなら、こうした情報をきっちり把握している連合軍さえ、何もしようとしなかった。鉄道線路一本を破壊するだけで、ドイツ国鉄による「ユダヤ人の移送」も麻痺したのだが)

ドイツ降伏〜泥沼の掃討作戦・そして下品な復讐劇

 ノルマンディー上陸作戦によってフランスからドイツ本国に迫る連合軍、ドイツは東西から連合軍の進軍を迎えることとなった。全てが末期的様相となる中、戦争につきものの悲劇が繰り広げられた。
 ヒトラー暗殺に失敗した国防軍の1グループは一網打尽にされ、逮捕・処刑された。抵抗グループに理解を示したメンバーの一人に、連合軍でさえ敬意を払ったロンメル将軍がいた。彼は名誉ある自決を告げられ、家族を救うために服毒自殺した。
 ドイツ領に攻め入ったソ連軍は、ソ連指導部の復讐を扇動する言動を真に受け、ドイツ女性の強姦や市民の大量虐殺を平然と行った。既にドイツ軍はロシア撤退に際し、焦土作戦を実行。村々は劫火に包まれていった。まさに殲滅戦の地獄である。
 西側から攻め入った米軍部隊も、老兵か少年兵の寄せ集めのドイツ軍に対して品位に欠ける復讐を行った。あるSS部隊が米軍看護婦を強姦した、などの虚報を信じたある部隊がドイツ軍捕虜を大量処刑。一部の連中は掃討作戦を狩猟感覚で実行した。たった1両の戦車で米軍を釘付けにしたあるドイツ軍チームが降伏、米軍は彼らをあっさりと射殺した。
 戦争の締めくくりは、下品な復讐劇をもってなされた。印象に残った「フランスにおける復讐劇」を挙げると・・・フランス人は、自動車の神様ポルシェ博士を逮捕した。ヒトラーもスターリンも礼をもって迎えた技術者を、自由の国のフランス人は不当に拘禁したのである。フランス人の多くはドイツ占領軍に強力し、ユダヤ人の逮捕も手伝った。そのくせパリ解放後、ドイツ将校と付き合っていたパリジェンヌは全員衆人の目前で丸刈りにされ、リンチを受けたのである。

後に残ったのは焦土とそして死者の野原、これ以上の愚行があるだろうか。





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