岩手県奥州市:えさし藤原の郷にて〜安宅の関のセット 岩手県奥州市:えさし藤原の郷にて〜安宅の関のセット

奥州藤原氏も滅亡へ

これまた歌舞伎の世界で有名な「勧進帳」

 義経一行は、これまた歌舞伎で有名な安宅の関にさしかかっていた。彼らは関守の富樫泰家に咎められるが、武蔵坊弁慶はニセの勧進帳 (お寺に寄付を募るための文書) を読んで、我らはニセ山伏ではありませんよと富樫を納得させようとする。しかし、一人だけどうも義経に似た若者が混じっているのを部下が見つけ、富樫は追求に及んだ。もはや富樫の疑念は確信に変わっていただろう。
 ところが弁慶は予想外の行動に出た。こいつ、ちょっと義経に似てやがるから、しょっちゅう関所でゴタゴタを起こさなきゃなんない、こんちくしょう!と義経を棒で打ちすえたのだ。富樫は、弁慶の主人を思う気持ちに心を打たれ、ついに関所の通過を許してしまうのであった。

西行、東大寺復興の勧進のため、奥州平泉へ向かう〜こちらは本物の勧進です・・・

 ちょうどその頃、東大寺の金メッキ工事の勧進のため、西行という法師が奥州平泉を目指していた。片瀬江ノ島まで来た西行は、美しい松の木がみな 「北=奥州の方向」 へ枝を伸ばしているのを複雑な思いで眺めた。自分の心は常に京都を忘れることはない。あんた達も、京都の方向も見なさい!と松をねじ曲げた、とされる。(↓写真)

「西行のもどり松」〜神奈川県藤沢市

↑片瀬江ノ島の市街地に残った「西行のもどり松」〜神奈川県藤沢市

西行、運悪く頼朝に捕まる〜鎌倉の地侍に大した用事は無いのだなぁ・・・

 さて、鶴岡八幡宮を参拝し終わったところ、彼は運悪く頼朝に会った。頼朝は、「これはこれは西行さん、いいとこ来なさった!」 と頼みもしないのに自分の館へ案内する。頼朝は、西行に国賓級のもてなしをして、しきりに兵法の話を聞きだそうとする。西行はもともと北面の武士=院の親衛隊員とも言うべきエリートだった。しかも藤原秀郷の第九代目の子孫にあたり、奥州藤原氏とは、遠い親戚にあたるのだ。西行は、そんなこと忘れましたわい、と面倒くさそうに話をそらした。それより頼朝公、藤原秀衡さんの寄付について、あなた様のお力で根回しでもお願いできませんか?と返した。頼朝は思わず顔を曇らせる。
 京の人達はこれほどまでに奥州藤原氏を頼っているのだ。鎌倉などと、八九三まがいの田舎侍が野合した程度のこと。せいぜい、何の役に立つというのだろう!

 鎌倉を出発する西行に、頼朝は 「銀製の猫の香炉」 を贈り物とした。あのねぇ・・・銀はいらないのだなぁ。西行は、道端で遊んでいる子供らに声をかけた。猫で遊ぶかい?だったらあげるよ!
 大人達は、「なんという欲のないお方であろうか」 と合掌するのであった。西行は、やがて奥州平泉に到着する。政争を逃れた多くの知識人が、東北の新都に集っていた。庇護を求める異国の人間を、藤原秀衡は暖かく迎えたのだ。戦争とは無縁なこの地こそ、極楽浄土に最も近い場所だったろう。もちろん西行は、目的を達成して京へ貢金することが出来た。平泉帝国崩壊のわずか三年前の出来事だった。

岩手県奥州市:えさし藤原の郷にて〜金色堂の再現 金色堂の内部もちょっと再現〜本物の撮影はご法度なので、こっちで写したいだけ写す!

義経一行は平泉へ亡命〜そして平泉の巨星:藤原秀衡が世を去る

 義経らは平泉へ落ちのびた。北方の王者〜奥州藤原氏の黄金時代を築いた秀衡は、既に病弱の身である。秀衡は、息子泰衡・国衡へ遺言をした。義経様を将軍に立てて頼朝軍の侵入に備えよ。義経様、息子達をよろしくお願いします・・・。秀衡はそして息を引き取った。

 次第に高まる鎌倉の脅威に、平泉は動揺した。頼朝は既に、義経が平泉に潜伏していることをつきとめていた。頼朝は義経の引渡しを要求する。藤原泰衡は頼朝の脅迫に抗し得ず、ついに義経の住む 「衣川の館」 を急襲した。義経は、郎党達に・・・「もはやこれまで、あるじの至らぬこと、許せ」・・・
 義経は館に火をかけ、自害する。武蔵坊弁慶は主人の自害のために時を稼ぐべく、寄せ手を次々と倒すが、ついに無数の矢を受けて仁王立ちのまま息絶えた。

岩手県奥州市:えさし藤原の郷にて〜伽羅御所 岩手県奥州市:えさし藤原の郷にて〜義経持仏堂

奥州藤原氏滅亡へ・・・平家も源氏も、要は文明の破壊者か?

 義経の首は、鎌倉へ届けられた。しかし頼朝は眉一つ動かさない。首実検では確かに義経の首に違いないと思われた。義経は死んだが、人々の心の中に義経は生き続ける。この人間ほど数多の生存説が唱えられた人間はいないだろう。もしかしてニセ首かもしれない。しかし、頼朝にとってそんなことはどうでもいい。奥羽一七万騎を絶滅させ、京に次ぐ大都市平泉を地上から抹消させるのだ。言いがかりは何とでもつけられた。義経をかくまっていた行為そのものが鎌倉に対する大罪である、と。
 頼朝の奥州征伐で、さしも百年の栄華を誇った新都も黄金文化も、ことごとく焼失した。

頼朝のぶざまな最期〜そして源家将軍もあれよあれよと言う間に途絶える・・・

 鎌倉「幕府」を創設し、700年近い武家政治の祖となった頼朝。肉親やかつての忠臣でさえ容赦なく殺した冷酷な政治家は、人々の心をとらえて離さぬ生存説の一つも唱えられないぶざまな死に方をした。相模川の橋供養に赴いた際に落馬、相模川の水を大量に飲んだことで体調を崩した、などと言われている。
 その後の源家将軍達も、ぶざまな運命だった。頼朝の息子頼家は、北条氏によって追放、暗殺された。北条が勝手に編纂した「吾妻鏡」によると、湘南暴走族の先駆け?、ナンパ男などと、クソミソに書かれている。もちろん、勝者である自分達に都合のいいように書いているのだ。
 三代将軍実朝は、鶴岡八幡宮の大銀杏に潜んでいた頼家の息子:公暁に襲われ、暗殺された。その後に続くのは、御家人同士の血で血を争う権力闘争だ。今東光:中尊寺住職(故人)は、こう表現した。「平家も源家も、何を残したであろうか。彼らはともに、三代百年の権力と栄華さえ維持できなかったではないか」・・・。




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北条四郎のホームページ〜勝手に鎌倉紀行のコーナー

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