義経は、これまた歌舞伎で有名な安宅の関にさしかかっていた。関守の富樫左衛門に咎められるが、武蔵坊弁慶はニセの勧進帳(お寺に寄付を募るための文書)を読んで、我らはニセ山伏ではありませんよと富樫を納得させようとする。しかし、一人だけどうも義経に似た若者が混じっているのを部下が見つけ、富樫は追求に及んだ。もはや富樫の疑念は確信に変わっていただろう。
ところが弁慶は予想外の行動に出た。こいつ、ちょっと義経に似てやがるから、しょっちゅう関所でゴタゴタを起こさなきゃなんない、こんちくしょう!と義経を棒で打ちすえるのであった。富樫は、弁慶の主人を思う気持ちに心を打たれ、ついに関所の通過を許してしまう。
あー、せいせいした、遅くなったのもおめーの性だ、このやろー!と芝居を打ちつつ関所から遠ざかる弁慶ら。とうとう誰からも見えないところまで来て、彼は涙を流して平伏した。いかに危急のこととはいえ、主人を棒で打ち据えるとは・・・お許しくださいませ・・・。
彼らは改めて落人の悲哀を感じたのであった。
ちょうどその頃、東大寺の金メッキ工事の勧進のため、西行が鎌倉入りした。最終目的地は奥州平泉。東大寺の再建に必要な大量の金の調達となると、藤原秀衡を頼るしかなかったのだろう。片瀬江ノ島まで来た西行は、美しい松の木がみな「北=奥州の方向」へ枝を伸ばしているのを複雑な思いで眺めた。自分の心は常に京都を忘れることはない。あんた達も、京都の方向も見なさい!と松をねじ曲げた、とされる。(↓写真)
さて、鶴岡八幡宮に参拝し終わったところでひょっこり頼朝に会った。頼朝は、「これはこれは西行さん、いいとこ来なさった!」と頼みもしないのに館へ案内する。あんたに用事なんかないの。藤原秀衡さんに会いに行くんだから・・・。頼朝は、ボロをまとった西行に国賓級のもてなしをして、しきりに兵法の話を聞きだそうとする。西行はもともと北面の武士=院の親衛隊員とも言うべきエリートだった。西行は、そんなこと忘れましたわい、と面倒くさそうに話をそらした。それより頼朝公、藤原秀衡さんの寄付について、あなた様のお力で根回しでもお願いできませんか?と返した。頼朝は思わず顔を曇らせたに違いない。
鎌倉を出発する西行に、頼朝は「銀製の猫」を贈り物とした。あのねえ、銀はいらないの。金メッキに使う砂金なの!西行は、道端で遊んでいる子供らに声をかけた。猫で遊ぶかい?だったらあげるよ!
大人達は、「なんという欲のないお方であろうか」と合掌するのであった。その西行は、金色に輝く平泉に到着する。中尊寺・毛越寺をはじめ、黄金が花咲く平泉〜もちろん西行は、目的を達成して京へ貢金することが出来た。平泉帝国崩壊のわずか三年前の出来事だった。

義経らは奥州へ落ちのびた。奥州藤原氏の黄金時代を築いた秀衡は、既に病弱の身である。秀衡は、息子泰衡・国衡へ遺言をした。義経様を将軍に立てて頼朝軍の侵入に備えよ。義経様、息子達をよろしくお願いします・・・。秀衡はそして息を引き取った。
次第に高まる鎌倉の脅威に、平泉は動揺した。頼朝は既に義経が平泉に居ることをつきとめていた。頼朝は義経の引渡しを要求する。泰衡は頼朝の脅迫に抗し得ず、ついに義経の住む「衣川の館」を急襲した。義経は郎党達に・・・「もはやこれまで、あるじの至らぬこと、許せ」・・・
義経は館に火をかけ、自害する。武蔵坊弁慶は主人の自害のために時を稼ぐべく、寄せ手を次々と倒すが、ついに無数の矢を受けて仁王立ちのまま息耐えた。
義経の首は、鎌倉へ届けられた。しかし頼朝は眉一つ動かさない。首実検では確かに義経の首に違いないと思われた。義経は死んだが、人々の心の中に義経は生き続ける。この人間ほど数多の生存説が唱えられた人間はいないだろう。もしかしてニセ首かもしれない。しかし、頼朝にとってそんなことよりも、奥州を討って北方の脅威を取り除く・・・目標は正にそれであった。そして彼は、その通りにした。言いがかりは何とでもつけられた。義経をかくまっていた行為そのものが鎌倉に対する大罪である、と。
頼朝の奥州征伐で、平泉王国はあっけなく消えた。もはや日本全土が鎌倉の掌握のもとにある。義経が、弁慶の仁王立ちの間に衣川の館をひそかに抜け出たところで、大勢に何の影響もなかった。しかし人々の心の中に義経は生き続けたのである。
「同情するなら金をくれ!」何年か前のあるテレビドラマの名文句を思い出した。判官びいきを美徳とする私たち。弱者に対して秘かに応援したり同情したりする態度は、美徳と言えば美徳なのかもしれないが、積極的な行動に結びついていない無責任さも指摘できる。安宅の関の富樫も、義経の哀れな様子に心打たれても、鎌倉殿の冷酷な政策に意見する訳でもなかった。封建時代であるだけに、それは仕方のないことではあるのだが、時代が下るにつれてその矛盾は様々に露呈した。民衆の中に義経の悲哀は生き続けたが、自らの悲哀を克服しようとは思わなかった。いや、現代に至るまで、民衆の力で日本の運命を左右した事例など無に等しい我々は、弱者に対する同情以前に、常に巨大なるものへの畏怖と同居した。だから、弱者が本気で声を上げようとすると我々は黙殺しようとする。判官びいきとは何であろうか。同情するなら金をくれ!のセリフは、同情することで自分が少し偉くなったように考えようとする自己満足への、辛辣な批判のような気もする。
鎌倉「幕府」を創設し、700年近い武家政治の祖となった頼朝。肉親やかつての忠臣でさえ容赦なく殺した冷酷な政治家は、人々の心をとらえて離さぬ生存説の一つも唱えられないぶざまな死に方をした。相模川の橋供養に赴いた頼朝の馬が暴れ出し、馬ごと落っこちた、いや、馬が頼朝を振り落として馬だけが相模川にばしゃばしゃ入っていった、頼朝はその時に即死した、いや、相模川に落っこちた時に川の水を飲んじゃって体を悪くした、頼朝は糖尿病だった、合併症で脳溢血になって馬から落っこちた・・・もはや正確な死因は不明というのが実情のようだ。とにかく言えそうなことは、平塚市付近の相模川はその頃から馬入川と呼ばれるようになったことと、当時の頼朝は血糖値が多少高かったこと、そんなところだろうか。
頼朝亡き後、二代将軍となった頼家はバカ息子としか言いようがなかった。頼朝は、頼家の器量を見抜けぬ親バカであることも、一つの欠点であった。頼朝は、数々の戦功を挙げた弟を殺してしまった。そのくせ鎌倉幕府を率いる能力など無い頼家を溺愛したのである。母親政子の方こそ、鎌倉が安泰でいられる為には息子をどう扱えばいいか冷静に考えられた。たとえ自分の息子でも、あっさり権限を取り上げて、有力御家人らの合議体を創設するなど、とにかく鎌倉の政治に安定に奔走するのである。
ところが、頼家の妻と義父(比企能員)をはじめとする比企一族は反発した。頼家の妻若狭の局は、「尼御前(政子)は主人に干渉し過ぎなのよ!」とわめいた。嫁姑の確執の典型のような状況である。これに比企家の北条家に対する日頃の不満に着火する結果となった。頼家は、この場に及んでもただのバカ息子だった。母親に政治的に反抗する根性も無く、ヤケを起こして悪友と馬で鎌倉市中や江ノ島海岸を暴れ回った。湘南暴走族の誕生である。そのへんのナンパぐらいじゃつまらなくなった彼らは、御家人の側室にちょっかい出して乱闘騒ぎまで起こす始末。政子はいい加減このバカ息子にキレた。頼家は、日頃の行いが悪い性か、病気になって床に臥せるに至った。まともな判断力もなくなった頼家は、若狭の局や義父の言に完全にそそのかされてしまい、北条を討て!と命ずるのであった。
政子は決断した。バカ息子を将軍クビにすること、そして比企家を討つこと!比企能員の暗殺は、政子の父北条時政が実行した。誅殺など得意中の得意の時政は、獣を誘うようにして罠にかけた。ついに比企家は頼家の嫡子を盾に立てこもったが、北条家のエース義時(政子の弟)に攻め立てられ、一族は自決した。
北条家は、騒乱の種を撒いた頼家を許さなかった。出家を命ぜられ、伊豆(修善寺)へ幽閉されたのである。もちろん政子の考えは、鎌倉幕府の安定が第一であった。すぐさま頼家の弟実朝を三代目の将軍にすえたのであった。


