鎌倉大仏建立・そして鉢の木伝説

政子亡き後・・・

 鎌倉幕府創設に尽力した長老が次々と世を去って行き、鎌倉は新しい時代を迎えた。承久の乱で、総大将として反乱軍を撃破した北条泰時は、父義時の死去によって第三代執権に就任する。叔父北条時房を「連署」に指名し、評定衆を設置して御家人らが参加する合議制を定着させるなど、カリスマ指導者亡き後の混乱を「制度」をもって収拾した。北条は、義時といい、泰時といい、それなりの人物に恵まれている。泰時は、御家人の間でも人望が厚いことで知られていた。京都を占領し、六波羅探題長官となって朝廷監視の任にあたったりしたが、彼は公家連中にも一目置かれていた。
 泰時の前に、問題は山積していた。例えば承久の乱で、相模の御家人がごっそりと西国の守護だの地頭だので赴任していったが、現地の人間と訴訟騒ぎが絶えない。関東の御家人達も・・・相続だの境界線が食い込んでるだの、土地をめぐる争いが絶えなかった。そんなことで合戦でもやられたら困る。評定衆では、合議制をもって「とにかく公平に」これらの問題を審決することが求められた。幕府は・・・民事裁判所的機能が異様に肥大した存在だったことは、土地を管理する武士らが源頼朝を担ぎ上げた経緯を見ても肯ける。
 公平な訴訟が、慣例のみでは物足りない。泰時は、有名な「御成敗式目」を設定した。武士の世界における初めての本格的な法律といえた。土地所有のルール、武士が守るべきこと、守護・地頭の権利、訴訟に関する規則、家族制度と相続等が定められたのである。法律なのだから、たとえ強い者と弱い者の争い事でも、訴訟の場においては上がる土俵は同じとせねばならない。だから、北条家が土地問題で訴えられて敗訴することも実際あった(らしい)。
 泰時は、質素倹約を基本とし、この頃深刻な問題となっていた飢饉に際して「徳政令」を出すなど、「名執権」だったと言えよう。

みんなに愛される鎌倉大仏〜建立の経過は謎

 江ノ電長谷駅は、いつも観光客で混雑する。鎌倉と言えば大仏・・・高さ11メートル、重量122トンの阿弥陀如来こそ、鎌倉の象徴の一つである。しかしながら、建立の正確な記録は残っていない。言い伝えや、高徳院さんの入場券の説明書きによると、僧浄光というお坊さんの勧進で、長谷に木造の大仏をつくった。1243年に完成したが、1247年の暴風雨で壊れた。今度は青銅の大仏をつくり、1250年代後半に完成した、とのこと。
 奈良の大仏は国家事業だったので、当時の吏員による記録が残されていた。それに対して鎌倉の大仏は、民衆のボランティアでつくられたものなので、正確な記録を書く人もいなかったのだろう。奈良の大仏が、つぎはぎ的な修復を繰り返しているのに対し、鎌倉の大仏は当時の作風をそのまま今に伝えているという。頭が少し大きくて、猫背気味のスタイルは、正に当時の流行だったようだ。


↑今日も大勢の観光客に囲まれる。


↑鎌倉や みほとけなれど 釈迦牟尼は 美男におわす 夏木立かな by与謝野晶子

教科書でおなじみの「あの名場面」〜執権北条時頼

 上野の国佐野のある貧乏な農家・・・今日はあいにくの大雪である。家に住む老夫婦は、貧乏なあまりに暖をとるのも往生する有様・・・寒さに震えていると・・・一人の僧侶が一晩の宿を乞うて来た。こんな家でよければどうぞと入れてはみたが、この寒さはどうだろう!
 「こんなものでよければどうぞ」とごまかしたような粟飯をふるまう。僧侶は、寒さに震えるのを我慢している。その遠慮している様子もかえって自分の身にこたえた。主人は、大事にしていた梅・桜・松の盆栽を炉に運んできた。僧侶はびっくりして「そんなもったいないことを・・・一晩お宿をいただいただけで十分でございますのに!」と恐縮した。主人は迷うことなく盆栽をバキバキと折って炉にくべてしまった。確かに盆栽はパチパチといい音立てて燃え始め、家は暖かくなった。  僧は、夫婦の表情が暖気で緩んだのを見計らって、主人の名を尋ねた。家のはしっこに置いてある、壊れたような武具が気になるようであった。
 主人は、「私は佐野源左衛門常世といいます。一族から土地を横取りされまして、このように落ちぶれてしまいました。落ちぶれたとはいえ、あのとおり武具一式は残しております。もし危急の時あらば、この老体に鞭打ってでも鎌倉に馳せ参ずる用意があります!」と、鎌倉武士としてのプライドを語るのであった。

 さてさて、あの雪の日からどれほど経ったろう。前の執権北条時頼公からの招集の知らせを聞き、常世は鎌倉へ馳せ参ずることとなった。壊れたような甲冑をどうにか身につけて外へ出たら、犬が吠える始末。「いざ!鎌倉へ!」とはいうものの、すっかり老いた愛馬は「よっこらしょ・・」という感じ。よろけたようにとぼとぼと進む愛馬、馳せ参じるどころか、鎌倉に着くのも遅れに遅れてしまった。
 鎌倉で、「時頼公がお呼びですぞ!」と言われ、常世は何のことだか訳も分からず、乞食のような身なりで出頭した。顔を上げるのもおそれ多いだけに、時頼公の顔を眺める暇もないのだが。 「あの雪の日の恩は忘れてはいないぞ。(横取りされた)領地は返させる。鉢の木は梅と桜と松であったな、加賀の梅田・越中の桜井・上野の松井田もそなたの所領とする」・・・

 北条時頼は、病気のため30歳の若さで執権から引退したが、伝説では民情視察のために僧に化けて諸国を視察したとされる。史実はどうなのか分からないが、時頼の人柄と政治家としての資質を物語る逸話である。この話は、武士としての心構えを学ぶための、教訓として用いられたようである。

 


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