静御前〜愛する殿へ

白拍子の舞

 さてさて時代はちょっと遡る。まだ木曾義仲が上洛する少し前のことであった。近畿地方は記録的な雨不足に見舞われ、京都市内は餓死者が転がる有様となった。当時の人達に出来ることはダム工事ではなく雨乞いの儀式であった。当時の雨乞いは、舞のお稽古をそれなりに仕込まれた処女で、しかも美女の誉れ高い者が選抜されて舞を舞った。伝説によると、最後に静が登場したことで、ようやく天に思いが通じ、雨が降り始めたという。もちろん後白河法皇におかれても、静の舞をご覧になられていた。法皇におかれては、お道楽に長けたところをお持ちで、今様に凝っていらっしゃった。この世界で静の母親=磯の禅尼はカリスマ的な今様歌手と言えた。磯の禅尼の芸風は白拍子という、男舞である。男装といえば立烏帽子に太刀というのがお決まりで、磯の禅尼はその系では第一人者であった。もちろん御所にも出入りしている。法皇の熱中ぶりは周囲の公達を呆れさせた。今様とは、漢字のとおり「現代音楽=流行歌」そのものといったところで、皇族がJ−POPに夢中になって自分でコンサートを開いているようなものだった。法皇自身も今様の歌集を発表される始末である・・・。
 義経と静の出会いは、義経の上洛後に行われた祝勝会の宴から繋がっているとされる。めでたい席上で白拍子の人を呼ぶのは習慣のようになっていて、その時に静が義経の前で舞ったらしい。もちろん義経は舞を見るだけで済まず、静を自分の宿舎「堀川館」に住まわせてしまった。これで静の舞が、公衆の場で見られなくなってしまったのである。法皇の失望はいつしか変転して「伽のほうはどうなのかな」と問うては側近を困惑させた。

堀川館へ頼朝の刺客が!静の機転が義経を救う

 腰越状の一件から、義経の住む堀川館の周囲はあやしい雰囲気に包まれた。土佐の坊昌俊が頼朝の刺客として堀川館を急襲したのである。京都市中の空気に敏感な静は、事前にこのことを察知していた。「殿、寝る時も武具を離してはいけませぬ」とのアドバイスのおかげで、昌俊ら刺客の急襲を見事撃退したのであった。もはやこの時、義経は追われる身であることを思い知らされる。


↑左女牛井(さめがい)跡碑〜堀川館内にあった名水の跡で、堀川館をしのぶ唯一の史跡。

永遠の別れ〜二人はこの後苦難の道を・・・

 西国へ落ちる計画も、船の難破の為に挫折した。義経は、正室や側室を京に返し、静だけを逃避行に連れて行くことにした。逃避行の困難なことが目に見えているからである。義経の政治的立場が無となった今、院も義経追討の院宣を出すに至った。もはや後白河院におかれても頼朝に全く逆らえなくなっていたのだ。頼朝はせいせいしながら「この天狗め」と院を罵った。
 義経達は、さらに逃避行を続ける。やはり静を連れて歩くのは苦しくなってきた。義経が静を無理にでも連れていきたいのは、それは美人だからに決まっているが、それ以上に静の人格によるところが大きかった。刺客の襲来を察知して彼を助けただけではない。一流の白拍子として厳しく教育されただけに、世間常識に疎い義経にとって先生的な存在でもあったようだ。義経は元来、すぐに甘ったれるところがあるだけに、姉御のようだったに違いない。
 でもさすがに、義経に帰京を命ぜられると静は泣き出した。殿、わたしは殿と別れるくらいなら死んでしまった方がましです。今すぐにでも私を殺してください、と泣きながら訴えるのであった。義経もまた子供のように泣き出して、ぼくは奥州へ落ちのびるが必ず帰って来る、それまで待っててほしい・・・二人は手を取り合って涙を流すばかりで、いつまで経ってもらちが明かないので弁慶らを苛立たせた。


↑頼朝像・・・政治家としては立派だが、人としては「?」(源氏山公園)

鶴岡八幡宮〜静の舞

 さて、義経と泣く泣く別れた静であったが、捕らえられて京の北条時政の司令部に護送された。連絡を受けた頼朝は直ちに、母磯の禅尼と共に鎌倉へ出頭せよとの命令を出す。すでに静は義経の子供を身ごもっていた。鎌倉へ護送された静は直ちに義経の逃亡先について取り調べを受ける。むろんそんなのは知らぬ存ぜぬで通した。
 頼朝・政子夫婦が鶴岡八幡宮へ参拝の日、静は白拍子の舞を舞うよう命ぜられた。既に身ごもっているのだが、拒否することは許されない。鶴岡八幡宮では、静を一目見ようと御家人達でごった返した。絶世の美女とみんなは言う。しかも追われる身となった恋人義経と別れて、こうして護送されてきたと言う。いったいどんなお方なのだろうか・・・。
 静は、頼朝と政子、そして御家人達の前で「愛する殿〜義経様を恋う歌」を歌い出した。たちまち激怒する頼朝・・・ところが頼朝の怒りとは裏腹に、田舎暮らしで大した娯楽も無い鎌倉の御家人達は、京都仕込みの優雅な舞にすっかり心を奪われてしまった。そもそも不幸を背負った美人ほど男心をくすぐるものは無い。「かわいそうじゃの」「拙者が代わりに慰めてあげたい」などとよだれ垂らしている訳だ。
 頼朝の怒りは収まらなかった。立場的に彼の怒りはもっともだった。八幡宮の御前で無礼である、直ちに斬って捨てよ!と命じるところを、意外にも政子がとりなした。
「あなた様も昔は追われる身であったはず、わたくしも(政略結婚を断ってまで)あなた様を追っていきました。静とわたくしの立場は(見方によっては)同じではありませぬか?」と。そら来た、流人の頃の昔話だ。二言目には「あなた様の今日は誰のために・・・」と来る訳だ。しかし政子の言い分は筋は通っていた。頼朝は仕方なく、命は許す、ただし男子を出産したならば殺す、と「妥協」した。それでも政子は解せないでいる。もはや大勢は決したも同然、頼朝の怒りは男のバカな嫉妬にしか写らなかったかもしれない。

 そしてとうとう、静は男子を出産してしまった。たちまち赤子は彼女から奪いとられ、由比ヶ浜に投げ捨てられたのであった。
 発狂寸前の静を見舞ったのは意外にも北条政子であった。いや、恐妻政子が解せない命令などと、本当に実行されたのだろうか。実はこの赤子さえも生存説が一部にある。義経や静の「それから説」は数え切れないくらいあるが、生存説が出る存在ほど世間の同情が厚い。
 静が母と共に帰京する際、政子をはじめ、彼女に同情する人々から多くの差入れが贈られた。いつの間にか判官びいきに感染していた人々・・・頼朝は歯軋りしていた。それは、同情者が多いばかりに、いつまで経っても義経が捕まらないからだ。静はこの後、歴史の舞台から忽然と消えた。彼女は愛する義経を追って、歴史の彼方へと消えて行ったのである。


↑静が舞を披露したという故事から「舞殿」と呼ばれる下拝殿


↑装飾が美しい限りの「舞殿」



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