1274年10月、フビライはついに日本侵攻の大命を発した。陸兵・乗員約3万名が1千隻の船団に分乗、高麗の港馬山を出撃したのである。対馬・壱岐は小石のように蹂躙され、船団は博多湾に到達した。
元軍博多に現る!の報に御家人達は家を飛び出した。貧乏な御家人にとって、手柄を立てる大きな機会でもあった訳だ。肥後国の貧乏な御家人竹崎季長は、大宰府守護少弐景資に従い従軍した。彼の手勢はわずか五騎、少弐景資の許可で赤坂へ赴くが、そこは既に元軍が蟻のように充満していた。季長は意を決し、たった5人の部下に「ただ懸けよ!」と命じたのである。
元軍に斬り込む季長と部下の奮闘は「蒙古襲来絵詞」で有名であり、その後「一番駆け」の功を認めてもらう為に鎌倉まで行った話も有名である。この当時の鎌倉武士にとっての戦は、個人的な利害と表裏を成すものから脱却できていなかった。だから元軍の集団戦法に大苦戦したのである。
「じゃーん!」という聴きなれないドラの音に馬が驚いた。一騎打ちのために名乗りがどうのこうのとやってるうちに槍を持った歩兵に刺殺される。元軍は震天雷という新兵器も投入した。この原始的巡航ミサイルは、どこへ飛んでいくか撃った方も分からないという代物だが、日本軍を混乱させるに十分だった。上陸初日は元軍の大勝に終わったのである。
ところが・・・元軍は上陸地点を確保することもなく船団に引き揚げてしまった。この行動は謎とされている。理由があったのだろうが、もはや証言する者がいないから謎なのだ。元軍の船団は、その直後に襲った暴風雨で壊滅したのである。
「今回は運がいいだけだ、元軍はまたやってくる!」執権北条時宗は確信していた。彼は九州の沿岸に石築地(防塁)をつくらせた。可能な限り兵員の動員状況を報告させ、逆に高麗に出兵が可能かの基礎研究にも当たらせた。そんな中、フビライの再度の使者が鎌倉入りした。降伏せよ、つまりそういう意味だった。時宗は激怒する。フビライはまだ懲りてない!使者など斬って捨てい!時宗は元の圧倒的国力を理解していなかった。いや、理解できないのは当たり前である。時宗こそ、外国軍を日本本土で直接迎え撃つ戦争を指導した、最初で最後の指導者なのだから。
使者を殺害されて面目も丸つぶれのフビライは、再度の日本侵攻を決意する。フビライの地球が爆発するほどの激で侵攻作戦が進められた。高麗の合浦を出撃する先遣隊は、総兵力900隻4万名、中国本土から出撃する本隊は総兵力3500隻10万名。史上空前の大上陸船団だった。
1281年6月、彼らはついに来た!日本軍は石築地に立て立て籠もる。どかーんと「震天雷」が炸裂する。それっ今だ!と防塁越しに弓矢を浴びせかける武士達に上陸軍は苦戦した。さらに一部の勇敢な者は、夜にまぎれて元の船団に近づき火をつけることまでやってのけた。実はこの時参戦していた元軍は、先遣隊だけだったのである。大幅に遅れていた本隊の到着に武士達は驚愕する。4400隻の船団が海を端から端まで埋め尽くした。
しかし!本隊は上陸してこないではないか!船団は1ヶ月に渡って示威行為を行うのみだった。そして、この謎の行動も再び謎となってしまった。超大型の台風が博多を通過、船団は再び暴風雨に晒されて壊滅したのである。生き残った者にも過酷な運命が待ち構えていた。彼らは日本側の掃討作戦でことごとく討ち取られたのである。
時宗は、この戦争の犠牲者の霊を慰めるため、円覚寺を創建した。元の再度の襲来への対処、御家人達への恩賞の手配等、彼は国難を処理する為だけに生かされていた。元軍撤退から僅か3年後、時宗は病に侵され、34歳の若さでこの世を去ったのである。


