平治ノ乱で源氏は敗れた。父義朝に付き従って戦った頼朝は、東へ落ちていく途中に捕らえられた。六条河原で斬られる運命にあるはずが、平清盛の継母の、「亡き息子を見るようだ」という言葉に命を救われたのである。頼朝は伊豆へ流罪となった。この寛大な処置が、その後平家の命取りになるとは清盛は気付かなかった。それほど平家は絶頂を極めようとしていたのである。
頼朝は、いつかは身を起こし、平家を打倒することを忘れなかった。しかし彼は一介の流人、部下はおろか、なくてはならない土地も持っていなかった。ひたすら経を読み、機会あらば京の様子を窺い、下積み生活を贈る頼朝。彼は北条氏をはじめとする僅かな支援者達に、神経の磨り減るような気配りをしながら、挙兵の日を待ったのである。頼朝は、この時代に「東国の武士達」が何を望んでいるのかを学んでいく。
時は1180年、源三位頼政の京における謀叛で歴史は動いた。平家方による源氏掃討は頼朝の居る伊豆に及ぶは必至の情勢である。頼朝は北条時政の力を借りて挙兵に踏み切った。平家は初め、たかが流人の謀叛などと意に介してなかった。頼朝は緒戦の戦いで苦戦し、命からがら安房に逃れたのである。ところが、東国の武士達は彼を見捨てなかった。自分達の利害を代弁してくれる人物の登場に賭けたのだった。頼朝勢はみるみる膨張し、もはや関東の全域を掌握したも同然となる。頼朝は鎌倉に本営を置いた。鎌倉〜この天然の要害は、外から攻めにくい地形であることはあまりにも有名である。

奥州藤原家に保護されていた義経は、秀衡の再三にわたる引き留めの説得も聞かず、頼朝の陣営に馳せ参じた。藤原秀衡は、単純な、幼児のような、それでいて天才的な才覚を持った好青年義経に自分の息子以上の愛情を注いだ。秀衡は涙を流しながら、いつでも戻って来なさい、いや、必ず戻って来なさい・・・まるで愛娘を嫁がせる時の父親のように言うのであった。平泉を飛び出した義経は、飛び跳ねるような勢いで関東へ向かった。平家によって討たれた父義朝の仇をとること、それが源平の戦であると彼は信じていた。
富士川の陣〜頼朝と義経の運命的な出会いは、多くの者に深い感動を与えた。それが悲劇の始まりになるとは誰が予想しただろう・・・。

富士川の合戦が、平家の呆気ない敗北に終わり、頼朝は鎌倉を本格的に整備した。何よりも源氏の氏神である八幡宮を現在の「鶴岡八幡宮」の場所に移した。そして、頼朝に従った武士達への褒美や、御家人の屋敷の整備などを執り行う。義経は、あくまで御家人の一人として認められるに過ぎなかった。これも頼朝の政策である。義経は理解できない。自分は源家の棟梁たる頼朝の弟である。源氏の血統を受け継ぐ高貴な人間である・・・。奥州では誰もが「京の人だ!」とちやほやしたが、それは当然のことだと本人は思っていた。しかし兄はなにかあると「九郎!頭がたかーい!控えーい!」である。これはどうしたことか?
頼朝の数十年にもわたる流人生活、彼がここまで来たのも、北条氏をはじめとした有力各氏の助力あってのことだった。妻北条政子は口癖のように「あなた様の今日は誰のおかげ?」と言った。ロボットまではいかずとも、彼は諸氏の利害のために上に立つ身、源家の威厳は自分と一族の為でなく、彼を支えた東国武士の為でなくてはならなかった。
義経はそれを理解しようとしない。父の仇父の仇と言う。何ですぐ京に上らないのかと言う。何で源氏の佐竹を討つのか理解できないと言う。源平の定義もあいまいなのが源平合戦の真実だった。そもそも北条氏は平家である!血の問題はさておき、利害が最初だった。その利害を代表して頼朝は人の上に立っている。個人的な仇討ちなどと、持ち出されても困る。義経を特別扱いすると、何を言われるか分からない。だからお前には控えてもらわねばならない、ところがお前の態度は何だ!あまりに高飛車である。そんな秩序を乱す態度は兄とて許さぬ・・・。
「源平」のそれからは、しばし膠着状態に陥ったが、木曾義仲が挙兵したことで歴史が動いた。義仲は越中で平維盛を破ると一気に上洛。平家は安徳天皇と三種神器を奉じ、西国へ落ちた。木曾義仲の京における評判は悪かった。田舎侍の乱暴狼藉は目に余り、しかも兵糧不足による米の徴発に、民衆は悲鳴を上げた。後白河法皇・・・とにかく抜け目の無いお人にあらせられたが、平家を討て!という院のお人の悪いそそのかしに、義仲は完全に自滅する。自暴自棄になった義仲はついに院を法住寺御所に攻め立て、監禁してしまった。
頼朝は、前々から近畿に派遣していた義経と範頼(これも頼朝の弟)に、上洛を命じた。平家の前に、同じ源氏の一派木曾義仲を倒すためである。
この戦において、範頼こそ本隊であったが、支隊である義経の進撃はすさまじかった。あんな小柄な御曹司が、なぜゆえに馬を上手に操られて・・・と誰もが度肝を抜く。電撃的に京へ攻め入り、後白河法皇を保護した。煌びやかな甲冑に身を包み、女のような華奢な貴公子・・・田舎者たる木曾軍に嫌気の差していた京の人々は、義経の華麗過ぎる登場に感嘆したのである。後白河法皇は、新たなヒーローとも言うべき義経を呼んだ。義経、のぞみは何である?とのご下問に、義経は幼児に似た純真そのものの態で「(平家追討の)院宣をくださりませ!」と声高に申し上げた。これは面白いことになったと、例のお人の悪いところを見せる法皇・・・法皇は、平家が持つ三種神器を心配し、追討とも和睦斡旋ともとれる曖昧な院宣を出される。義経にそんな複雑なことが分かるはずがなく、ただ平家追討の決意を固める。
義経は、一の谷に平家を求めて出発した。本陣に突入する本隊と離れ、大きく迂回し、背後から衝こうというのだ。あまりにも有名な一の谷の合戦が始まった。

