JR平泉駅から毛越寺方面に歩くと、まず「旧観自在王庭園」が見えてくる。藤原基衡の妻の建立で、池のある風景は毛越寺そっくり。藤原氏の時代、このような庭園が腐るほどあったのだろう。いよいよ毛越寺へ!正面入り口の門は、一関藩(伊達藩の支藩)の陣屋にあった門を移設したもの。ここもまた伊達文化が色濃く残る。
松尾芭蕉の「夏草や 兵どもが 夢の跡」の有名な一句を刻んだ碑を見て、さらに本堂へ進む。本堂の前に人だかりができていて、警備の警官もいる。どうやら「延年の舞」が行われているようだ。お坊さんの解説を聞いた後、「路舞」が披露された。幕末まで多くの舞や能が伝承されてたそうだが、明治政府めによって強行された廃仏毀釈で一時廃れたという。
藤原時代、毛越寺界隈は数十塔もの堂塔が林立していたという。長い年月のうちに、火災や兵火で焼失し、いまや「庭園跡地」の雰囲気である。近世において、伊達藩が「礎石の移動を禁止する令」を出すなど、積極的に文化財保護にあたったという。庭園の周囲や伽藍跡の杉や松の木は、藩が目印のために植えたそうだ。
藤原まつりでは源義経公東下り行列が行われる。毛越寺がスタート地点となるそうで、たいそう賑わうようだ。タッキーが義経役で平泉入りした時は12万人の観光客が殺到した!その時の話を伺ったら「トイレも入れなかった」とのこと。沿道警備をした人の話によると、「あんた邪魔や、顔見えへん!」と獰猛なおばはんに頭叩かれたらしい。ご婦人の皆様方の興奮ぶりが目に見えるようだ。
曲水の宴(ごくすいのえん)は、水路に盃を浮かべ、その流れに合わせて和歌を詠む催しだ。平安時代の優雅なお遊びで、参加者は十二単などを着こんで水辺に座る。JR平泉駅の観光案内にあった絵に、お祭りの様子が描かれていた。水路は長年にわたり埋まっていたらしいが、発掘作業により平安当時の姿がよみがえったとのこと。
源平の争乱に明け暮れた平安末期、争いのない現世浄土の地を願い、そして花開いた奥州藤原氏の平泉文化。彼らが目指した理想郷は、宮澤賢治が思い描いた「イーハトーヴ」に通じるような雰囲気を感じる。厳しい現実しかない俗世間に忽然と現れる理想郷のような世界と、それを創造する岩手の賢人たち〜岩手県人は、何だか内気で保守的な気質をイメージするが、時折現れる「岩手賢人」といえば、はるか遠い海外の文明も取り入れた奥州藤原三代の賢人達といい、宮澤賢治先生といい、総理大臣を経験した斎藤実とか米内光政とか、なにかこう日本人離れした雰囲気を持っているところが面白い。このギャップがまた岩手県の魅力を一層高めているのだろう。
【岩手じぇじぇ〜な写真集】 平泉〜奥州藤原氏の栄光