もちろん盛岡城でがんす桜山神社盛岡八幡宮

最後の武士〜楢山佐渡の生涯

混乱する南部藩政〜若き家老楢山佐渡の決意

 南部盛岡は、昔っから飢饉に苦しめられる。冷害で米がひとっつも取れない年がある。それで藩政がお粗末だと一揆となって現れてくる。南部藩は、天下一の一揆発生国だった。しかも幕末に起きた「三閉伊一揆」は、大成功を収めた一揆として知られている。一揆勢は、盛岡城下ではなく、となりの仙台藩領目指して爆走した。一揆勢は、南部藩の悪政を仙台藩に対して訴え出たというからたまらない。面目は丸つぶれである。
 幕府は黒船騒動の処理で南部どころではなかったが、老中阿部正弘は南部藩の失政を厳しく指摘した。一揆への対処すら出来ないばかりか、藩主交代のゴタゴタさえ収まらない。阿部正弘は「南部利済をさっさと隠居させよ、即刻江戸へ参府すべし!」と命じた。

 「江戸なんぞ行きとうない!」南部利済は子供のように駄々をこねた。若き家老楢山佐渡は「このようなお方ではながったはずだが」と途方にくれる。かつては名君と言われた利済、ところがいつの間にか暴君に変わり果て、藩主の座を南部利剛に譲ったものの院政を敷いて居座った。利済の失政は、度重なる乱費である。立派な庭園に遊郭などと、貧乏藩のつくるモノではないはずだった。

 「殿、命にかえてのお願いでござりまする!」楢山佐渡は、死装束姿で利済へ直訴した。いつでも腹を切る覚悟の楢山の気迫に、「もうよい、わがったわがった、江戸さ行ぐがら・・・」さすがの利済も負けた。〜さすが楢山殿・・・周囲からため息が漏れた。一揆の収束に奔走し、わがままなご隠居の扱いに奔走し、最後はやり遂げる男、楢山あっての南部藩だと。ところが楢山を脅かす若きライバルがいた。東中務(ひがし なかつかさ)である。


東中務〜南部藩の改革に乗り出すが

 やっとこさ藩主として振舞えるようになった南部利剛は困惑していた。東の進める藩政改革が、あまりにも急進的過ぎる為だ。遊郭の廃止・大奥の人員削減と、徹底的な歳出削減策である。利剛は、どうも楢山佐渡の顔色を見なければ「そうせい候」とはいかぬところがあった。幼い時から遊び相手のいとこでもあったし、利済隠居の際、男としての借りがある。
 楢山佐渡も東中務も、ともに藩政の立て直し、という点では一致していた。が、二人の考え方は大きく違っていた。東が「理」ならば楢山は「情」であったろう。東の徹底的な財政改革論に対して、藩士の結束を重んじる楢山は、より緩やかな改革の立場だった。二人の人生哲学の違いは、その後の南部藩の運命に大きく関わって来るのである。

 二人は、お互いに競い合い、筆頭家老の就任と失脚を繰り返した。それに下級藩士達が派閥を作って争うことになる。二人の競争は、いつの間にか幕末の勤皇・佐幕の対立構造に変化してきた。現実主義者の東は、「勤皇派」に属した。幕府の凋落は目に見えていたからだ。
 そうは言ってもまだまだ「倒幕」が現実味を帯びていない以上、南部利剛にとって「勤皇」を旗印に幕府に背を向けるような施策は迷惑な話だった。利剛は「財政のことだけ」を東に託したつもりだったのである。東は罷免された。ちょうどその頃、京都では「大政奉還」「鳥羽・伏見の戦い」と歴史が急転回し始めていた。


京都では既に「大政奉還」〜判断に迷う南部藩

 「実に困ったのぉ・・・」南部利剛はまたしても困惑していた。彼の前に、朝廷からの書状がある。列藩の協力協賛を得て今後の行く末を決めるべく会議を行うから上洛せよ、との命である。京都から盛岡へ情報をもたらす為に、恐るべき時間がかかる時代だが、もはや天下はとっくに薩長のものになりつつあった。むろん、薩摩藩兵が勝手に宮中を封鎖して自分達に都合の悪い人々を追い出した経緯など、盛岡の人々はよく分からない。
 さて、病弱の利剛に代わる名代を誰にするか・・・利剛は東次郎(中務から改名)だけは許さなかった。東を復職させると藩内が荒れると踏んだのだ。そうなるとやはり楢山佐渡しかいない。命を受けた楢山は藩兵を率いて上洛することとなった。彼の行く手には、およそ想像もつかない「御一新」の現実が待ち構えていたのである。




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【勝手に歴史紀行編】〜最後の武士、楢山佐渡

・楢山佐渡といふ男  ・楢山、薩長新政府と決別!  ・秋田戦争敗北〜佐渡処刑!




北条四郎のホームページ〜イーハトーヴの世界を堪能〜勝手に岩手県紀行


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