ドイツ国防軍史

 メルセデスベンツやBMWに代表されるように、ドイツ製であることから感じられることと言えばやはり「機能美」であろうか。基本的には装飾のたぐいが必要最小限であり、必要とされる機能がバランス良く配置され、部品の一つひとつに至るまで緻密な、そして全体から見ると質素であり・・・。  そんな「ドイツ的な機能美」が極限にまで高められ、人間の行動までそうであることを強要された時代があった。ナチスドイツの「千年時代」、その生成と消滅を「ドイツ国防軍の歴史」からつぶさに見ていくことにしよう。

第一次世界大戦後のドイツ〜再軍備が厳しく制限された中での格闘

 第一次世界大戦で降伏し、ベルサイユ条約によって軍備を厳しく制限されたドイツ。その内容は一つの国家が国家として自己完結するのも困難なほど厳しいものだった。国防軍の人員は10万人だけ、将校は4千人だけ、日本の自衛官の定員よりはるかに少ない数である。そんな状況でどうして第二次大戦で世界を相手に戦うところまでこぎつけたのだろうか。

▼いびつな人員構成
 第一次大戦後の国防軍の将校の数は4千人という制限があったが、それ以外の下士官の人員構成に特別の制限はなかった。そこでとった苦肉の策は、兵隊として徴募した人間にも専門的教育を施すという、いかにもドイツ流の徹底したものだった。徴兵期間も他の軍隊と比べると破格の長さで、職業軍人としての専門的教育を施すことで、ある程度将校に近い職務を執れるようにしたのである。これで来るべき大動員の準備がなされたのであった。下士官から兵士に至るまで高度に訓練されたドイツ軍は、第二次大戦中の兵員の不足やヒトラーの無理解を、自らの血と汗で補うことになるのである。
 一方、プロイセン以来ドイツ陸軍の頭脳を担っていた参謀本部もベルサイユ条約によって解体されていたが、各省庁へ秘密裏に組織を分散させて温存を図った。ベルサイユ条約で禁止された高度な教育訓練は、実はソ連国内で極秘に実施された。その後に起こる「独ソ戦」を考えるとあまりにも皮肉である。

グデーリアンの理論

 ヒトラーの政権獲得によって、ドイツ国防軍は再軍備を敢行した。しかしその大軍拡の現実は相当にお粗末なものだった。ところが世界は「宣伝相ゲッベルズ」の過大な宣伝に惑わされてしまう。昔の日本はマスメディアの表現に制限を加える発想しかなかったが、ナチは逆にメディアを駆使した。一糸乱れぬ行進をするドイツ軍の「見かけの勇姿」、空を覆う爆撃機の群れ、確かに映画ではさも精強であるかに見えた。ところが厳しい軍備制限を受けていたダメージは随所に見られたのである。

 例えば戦車。再軍備後のドイツ軍主力戦車は「1号」と呼ばれる豆戦車であった。とても連合国の戦車を撃破できる代物ではない。ところがこうした質的劣勢も、有能な軍人グデーリアンの理論によって補っても余りあるものにした。グデーリアンは、「戦車の突進が全てを解決する」とは考えなかった。戦車に付随する歩兵も全て装甲車かオートバイに乗務し、戦車と共に高速で移動する。砲兵も自動車化し、戦車の手に負えない障害物を除去する。上空には爆撃機が待機し、上空から部隊の移動を支援する。これまで軍隊の行動は歩く速度でしかなかったが、グデーリアンの理論は全て「自動車の速度」で進軍が進む。自動車のスピードでは伝令は全て無線で行わなければならない。無線通信の分野は戦車の車体以上の研究がなされたのであった。

 この「装甲師団」という高速移動体的概念は、プロイセンの保守的な長老軍人には理解されなかった。が、とある出来事がグデーリアンの出世のきっかけをつくった。グデーリアンはヒトラーの演習査閲に際し、装甲師団の基礎的概念について説明することを許された。早速彼は1号戦車と若干の自動車化歩兵による偵察小隊を編成、堂々の行進を披露したのである。ヒトラーは感激した。これがわたしの求めていたものだ、と彼は言った。軍事的教養以前に、直感と思いつきが彼を支配していた。再軍備の為ならナチを利用しようとした国防軍、しかしいつの間にか彼らはナチに支配されつつあった。

ポーランド侵攻・フランス侵攻〜驚愕の電撃戦

 第2次大戦の勃発、緒戦のドイツ軍の快進撃に世界は驚愕した。ポーランドを数週間で席捲し、フランスを1ヶ月で降伏に追い込んだのだ。ポーランドについては、ポーランド軍が前近代的要素が強かった面は否めない。しかしフランス陸軍については世界最強との前評判もあり、援軍として馳せ参じた英軍を加えると、ドイツ軍は質にも量にも劣っていたのであった。それにもかかわらず全てを圧倒した理由はなぜだろうか。
 劣勢であってもドイツ軍が圧倒したのは「スピード」であった。連合軍は、戦車は歩兵に随伴する、という考え方から抜け出せなかった。何事にも歩く速度でしか考えられない連合軍に対し、ドイツ軍の中核部隊は全て自動車化されていた。たとえ1号戦車が小さいといっても、スピードが速いので砲撃もかわされる。戦場を高速で走り回る戦車隊から無線連絡を受けた各部隊は、状況に応じた最善の方法で部隊を展開させる。地上からの信号に応じて爆撃機隊が連合軍の拠点を空爆、それでも脅威となる拠点に対しては、自動車で牽引された砲兵部隊が片付けたのであった。そのスピードに連合軍はついていけなかったのである。

 自動車化された装甲師団の突進・・・ドイツの機械技術が極限にまで生かされた典型のように思えるが、その実情に意外な一面があったことを触れなければならない。性能のいいオートバイや自動車を支給された部隊はごく少数で、ほとんどのドイツ軍部隊は徒歩で進軍していたのである。ドイツ軍の勝利は、少数の部隊に戦車や自動車を集中させた結果であった。その部隊が持つ無線通信は、最新の情報が末端にまで伝わるシステムであり、何事にもスピードにおいて圧倒したのである。

独ソ戦〜殲滅戦争の幕開け

 1941年、ドイツ軍を中核とする枢軸軍は、突如ソ連への侵攻を開始した。ソ連侵攻=バルバロッサ作戦の始動である。教養のある将校達の何人かはナポレオンの亡霊を垣間見た。腐ったドアをけり倒すだけだ!と豪語するヒトラー。この開戦が、世界戦史上最悪の殲滅戦争に発展したのである。死者は枢軸側1千万人、ソ連側は前線だけで2千万人に及ぶものであった。

緒戦の電撃的勝利

 緒戦のドイツ軍の進撃は快調だった。ソ連軍の不手際とスターリンの失策によって、ソ連軍は総崩れとなる。ドイツ装甲部隊はロシアの不毛の大地を進んだ。北方軍はレニングラードへ、中央軍はスモレンスクへ、南方軍はウクライナ南部へ。南方軍は予想外の悪路に苦戦した。ロシアの道路は舗装率が低く、雨季となると泥やぬかるみにドイツ軍戦車のキャタピラは足を取られた。早くもロシアの自然の脅威が立ちはだかってきたのである。
 ドイツ軍首脳は、ソ連侵攻についてあくまでモスクワ攻略を第一目標としていた。モスクワの占領が連合国に与えるダメージは尋常ではなく、それは戦略的に決定的だったのは肯ける。ところがヒトラーは、ウクライナの首都キエフの攻略にこだわり、グデーリアンをはじめとしたドイツ軍指導部と激しく対立した。キエフ攻略は成功し、ソ連軍は膨大な捕虜を出して壊滅したが、キエフ攻略後のモスクワ進撃は時期を明らかに逸していた。ロシアの寒波=冬将軍の到来である。
 ドイツ軍先遣隊がモスクワから50キロ近くに到達したのが11月中旬、本格的な冬季準備の無いドイツ軍にロシアの寒波が襲いかかった。気温氷点下30度、時には氷点下50度の寒波が兵員・自動車を襲ったのである。むろんラジエーターも凍りつき、エンジンの始動もままならない。兵士達は凍傷にかかり、次々と戦線を離脱してゆく。そこに地の利に長じたソ連軍が反撃に転じたのだった。ドイツ軍のモスクワ攻略は失敗に終わり、装甲部隊指揮官グデーリアンは解任される。国防軍は既にヒトラーのおもちゃだった。

殲滅戦争の恐怖〜特別行動隊

 進軍するドイツ軍に続いて、ヒトラーより「ユダヤ人、共産党指導層を即刻射殺する」特別任務を帯びたSS親衛隊部隊が行動を開始した。隊員がユダヤ人を次々に逮捕し、1箇所の空き地に集めては大量処刑を行っていく。ドイツ人だけでなく、非占領地の反ユダヤ的民族主義者もこの虐殺行為に加わった。リトアニア・ウクライナ・白ロシアの民族主義者は、ドイツ軍進撃前からポグロムといわれる反ユダヤ暴動を引き起こしており、SS部隊の処刑にも自ら協力したのである。
 この恥ずべき光景に、国防軍兵士は困惑し、無視し、中には虐待行為に安易に加担した。けれども勇気ある将校の中には、こうした行動に意義を申し立てた者もいた。しかしSS部隊の指揮官は大抵こう言った。あなたがたには関係ないことだ、と。一部の者の善意も何の力になり得ず、この特殊部隊は被占領地の安全な場所で何十万人の人々を処刑したのであった。まさに憎んでも余りある愚行である。

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