バルトの楽園

会津藩士と帝政ドイツ軍〜究極の負け組コンビ

 有名なベートーベンの第九が日本で初演されたのは、第1次世界大戦当時、日本国内に収容されていたドイツ兵捕虜による演奏とされている。
 当時、我が国はドイツ帝国と戦争状態にあり、中国青島駐留のドイツ人千人余りが、現在の徳島県鳴門市板東に収容されていた。収容所長に着任した松江豊寿大佐(当時中佐:松平健が担当)は、「武士の情」に基づく温情的・開放的な収容所運営を行った結果、ドイツ兵らによる活発な社会事業が行われた。彼らの活動は、地元徳島県民に対する技術指導、文化交流、スポーツ交流へ発展していったのは言うまでもない。中でも音楽活動は活発で、彼らの取り組みの集大成が、「ベートーベン:交響曲第9番合唱付」の日本初演であったのだ。



 この快挙の裏側には、やはり日本軍側責任者:松江大佐の人柄や生い立ちの問題と切り離せない。大佐は会津藩士:松江久平の長男として生まれた。戊辰戦争以来、会津藩士は賊軍と蔑まれ、苦難の明治を生き抜かねばならなかった。また、長州閥の跋扈する陸軍では、東北出身者が出世するのは容易ではなかった。戊辰戦争の敗者が世界大戦の敗者と向かい合った時、敵味方である以前にまず武人同士であるという、共感や同情が沸いたのは肯ける。



 ↑ドイツ人達が作った「めがね橋」〜当時の様子を伝える記念館↑

日独交流を支えた「会津士魂」

会津若松城滝沢本陣

 映画では、悲惨極まる会津戦争や、地獄の斗南藩開拓のシーンを織り交ぜながら、松江豊寿が幼少の頃に経験した「会津武士の苦難」を上手に表現していた。流刑地で寒さに震える子役さんはいい雰囲気出していたが、松平健さんは「暴れん坊将軍」の雰囲気が抜けないんだなぁ。でも松江豊寿本人のお顔に、だいぶ似せてはいる。ヒゲがトレードマークである。バルト=ドイツ語で「ヒゲ」の意味だった訳ですな。

会津若松の日新館日新館に掲げられている「十の掟」

↑会津武士達は、幼い頃から日新館で「会津士魂」を叩きこまれた

 会津武士達は、日新館という藩校で「什の掟」を叩き込まれた。「弱い者をいぢめてはなりませぬ」「卑怯な振舞をしてはなりませぬ」〜松江大佐の行動や態度が会津士魂に基づくものを証明しているようなものですな。
「年長者には御辞儀をしなければなりませぬ」〜これもよく見ると、松江がドイツ軍側責任者(ブルーノ・ガンツ氏登場)に、捕虜を相手にしているとは思えないほどの態度で接しているシーンがある。 第1次大戦は、貴族が戦場を駆け巡った最後の時代。捕虜にした敵将の格が高いと、逆に恐縮するぐらいの気持ちが残っている。捕虜の優遇・・・これは一種の貴族趣味と言えようか。

 考えさせられたのは、同じ会津出身の部下が松江の考えに異を唱えるシーンだ。中央の指令に忠実であってこそ、賊軍の汚名も返上できる、とする彼の意見は一理ある。東北出身者(しかも列藩同盟藩)の多くがこの種の葛藤に悩んだと思う。しかしながら、松江豊寿は帝国軍人である以前に侍であったと評されようか。武士は常に筋を通すべき何かがあるのだ。時の権力に迎合する大衆とは正反対の、クラシカルな生き様だ。一定以上の家柄に生まれた誇りがあってこそ持てる心の余裕であろうか。西洋的に言うと、やはり貴族趣味に近い。
 日本もドイツも、こうした昔気質の武士や騎士が次第に年老いて、世を去って行くのがこの時代である。そして日独両国民が行き着いた先は・・・・??なんとまあ、「歓喜の歌」は、ただの幻想だったのだろうか。



北条四郎のホームページ:敗者のための映画館


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