鎌倉の大銀杏〜懐かしの「あの勇姿」

鎌倉の象徴〜鶴岡八幡宮の大銀杏が倒れてしまった!

 大変残念なことが起きた。2010年3月10日、鎌倉の象徴的存在と言えた「大銀杏」が根本から倒れてしまったのだ。樹齢は約千年、3代将軍源実朝を暗殺した公暁が銀杏の木に潜んでいたことから、「隠れ大銀杏」と呼ばれている。
 時は1219年1月17日、鎌倉は雪に覆われていた。将軍実朝の「右大臣拝賀」の儀式が鶴岡八幡宮にて行われる。実朝が八幡宮の石段を下るのを、石段脇の大銀杏の陰で窺っている一人の僧がいた。頼家の遺児、鶴岡八幡宮別当公暁であった。実朝が、まさに目の前を通り過ぎようとした瞬間・・・「覚悟をいたせ!父頼家の仇である!」と刀を振り上げ、斬り込んだのである。実朝は即死であった。
 当管理者では、過去に撮影した写真を調べたところ、在りし日の姿を撮影した数点が出て来たので、ちょっとここで紹介。


↑鶴岡八幡宮の正面〜舞殿の修復が終わった後で、2006年5月撮影です。


↑季節が季節なので、青々としたイチョウです。



↑これは公暁が潜んだあたりを撮影〜当時はもっと細い木だったと思います。

三代将軍実朝の悲劇

 三代将軍源実朝・・・場違いに思えるほど温和な文学青年は、鎌倉にとってもっとも無害な人種といえた。時として兄弟相食む源氏の血を引いていることが信じられない、策略に長けた北条の血が混じっていることが信じられない、どこか超然とした雰囲気を漂わせる実朝・・・政子が、後鳥羽院の従妹坊門信清女を正室に迎えることを「命令」したときも、彼は「それも運命」とばかりにあっさり受け入れる従順さは、どこか投げやりな無力感も漂わせた。実朝よりはるかに時の将軍らしい後鳥羽院こそ、政子のやり手ぶりに舌を巻いた。
 とにもかくにも、信清女の鎌倉入りは、京都と鎌倉の融合という、まったくもって理想的な時代の幕開けを思わせた。朝廷と鎌倉も外戚関係で安泰である。これも政子の手腕であった。

 信清女は、遠く鎌倉の地へ嫁ぐことに失望と不安を抱いた。しかしながら京都からやってきた正室を、まるで和歌の先生が来たとばかりに喜ぶ実朝に、ようやく安堵の表情を浮かべるのであった。政子は虫かごの中のきりぎりすのつがいを観察するかのように二人を見守った。二人は雛人形のように寄り添っている。政子の願いはただ一つ、一時も早く世継ぎをもうけて鎌倉幕府を安定させることだった。でも二人はいつまでも雛人形のように寄り添い、虫かごの外の世界は有り得ないかのようだった。
 みやびな京都の文化が花開く鎌倉・・・文学青年実朝は、鎌倉への対抗意識を燃やす後鳥羽院の編纂された「新古今和歌集」を感激しながらながめていた。歌への思い入れはとどまるところを知らず、ついに自らも「金槐和歌集」の撰集に至ったのである。彼は、相模の国の風景を鋭敏にとらえ、歌に詠みこんでいくのであった。

 世の中は 常にもがもな 渚こぐ あまの小舟の 綱手かなしも

 実朝が鎌倉の浜辺で海を眺めながら詠んだと伝えられている。百人一首93首目に出て来る歌だ。漁師が舟を漕ぐ様子を眺めながら、この穏やかな日常が永遠であって欲しいと願っている。ところがその願いは虚しく、実朝は政争に巻き込まれた挙句に非業の死を遂げるのだ。



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