岩手県奥州市:えさし藤原の郷にて〜壇ノ浦の合戦を伝えるミニチュア 岩手県奥州市:えさし藤原の郷にて〜壇ノ浦の合戦を伝えるミニチュア

平家滅亡へ〜まずい終戦処理

義経の大活躍〜そして頼朝の思うところは・・・

 一の谷での源氏方圧勝の報に鎌倉は沸いた。頼朝も珍しく喜びの表情を見せる。恩賞は公平に審査の上与えること、頼朝は細々と部下に指示を与えた。ところで義経個人はどういう働きをしていたのか、正確に報告する者はいなかった。当時の戦争は、やあ我こそは!と名乗りを上げて、武者同士の一騎討ちである。記録となれば首実検だ。しかし義経は、個人的決闘ではなく、戦争を戦争としてとらえていた。もちろん頼朝はそれを理解していた。だから義経は平家を打ち破った。彼の威力に比べれば、誰某の首を取ったなどと騒いでいる御家人はかわいいものだ。頼朝は、義経への恐れと脅威を感じ始めていた。それは自らの軍事的センスの無さからくるコンプレックスと男の焼きもちの黒こげの産物でもあった。

「なぜ兄上はぼくを認めてくれないのだ?」恩賞の沙汰の一つもない義経は、おもちゃを与えてくれない子供のようにだだをこね出した。そうか、軍監梶原景高めの讒言が兄上の心を惑わしているのか!ならば一時も早く平家方を討ち滅ぼして、兄上に認めてもらうしかない、と彼はあせるのであった。
「そうか!義経は狂ったようにわめいておるか、わははは」その話を聞いて喜んでおられるのは後白河法皇であった。「ならばこちらから官位をあげようぞ!」と、これまたお人の悪いところをお見せになる法皇。義経は愛すべき若者ぞ、とお思いになられてはいるが、再興著しい源家が兄弟いがみ合うのもこれまたこたえられない。官位をあげちゃったら頼朝は怒るだろう。そしたら義経は、法皇さま!ぼくはどうすればいいの?なんて甘えてくるに決まってる。これが政ごとの醍醐味よ、と。

岩手県奥州市:えさし藤原の郷にて〜政庁のセット えさし藤原の郷にて〜まあイメージ画像ってところですな。

勝手に官位をもらった義経に、頼朝は激怒するが・・・

 従五位下検非違使の大夫尉に義経は任じられた。「判官」というのはこの職の通称のことである。この報に頼朝は激怒した。法皇の「策略」にうまうま乗せられてるばかりか、これでは鎌倉を無視したに等しい。頼朝は即刻「義経は鎌倉軍から追放」の沙汰を下した。

「なぜ?なぜ兄じゃは梶原景高めの讒言しか信じないの?」と半狂乱になる義経。兄なんだから最後はぼくを信じてくれるという彼の妄想は悲しいまでに純情である。しかし、もはや彼は源氏方を率いる大将でも何でもなくなってしまった。
 さて、義経を失った源氏軍のそれからは散々の有様だった。そもそも源氏の総大将源範頼が凡人であるうえ、京から遠く離れた山陽道方面へ軍を進めるための補給が追いつかないからだった。鎌倉は苦悩した。義経の超人的な活躍はかえって危険などと言っておれなくなったのだ。図々しくも頼朝は、義経の再起用を決断するしかなかったのだ。それは単に軍事の面だけ利用することだった。

「あーありがたやーありがたやー」と涙を流して喜ぶ義経・・・彼の純情なまでの反応は痛々しい。彼は圧倒的集中力と芸術的直感で屋島→壇ノ浦の合戦に勝利を収めていくのであった。もちろんその過程も様々なおまけ付きだった。歌舞伎では石屋に殺されるはずの梶原景高は、もちろんこの時も生きていて、義経と度々衝突した。義経の欠点は、部下に対する配慮が何一つできないことであった。武蔵坊弁慶や伊勢三郎などは、もともと義経の郎党である訳で、義経こそ絶対の存在なのは当たり前である。しかしながら、ほかの鎌倉軍の御家人は義経の部下でも何でもなかった。もともと頼朝の部下ですらなかった彼らが、何のために馳せ参じているのか・・・それを理解できない義経は、やはり総大将としては半分失格だった。

神奈川県鎌倉市:満福寺

↑義経と弁慶〜永遠のヒーローだが・・・(鎌倉市:腰越の満福寺にて)

壇ノ浦合戦 (山口県下関市) で平家滅亡へ〜義経のまずい終戦処理

 壇ノ浦の合戦で捕虜になった平時忠は策略家だった。どうにか一族が生きながらえるにはどうすればいいか?彼は「駄目も承知で」義経に近づいた。ぜひうちのきれいなきれいな娘を室にお願いできまへんか!と。既に正室を持っているから、と断る義経に時忠は必死に「そんなお堅いこと言わんでも」と勧める。囚われの身だけに真剣である。そもそも側室が何人もいるのが当たり前のご身分でしょうと。言われてみればもっともなので、「それならくるしゅーない」ということになってしまった。
 鎌倉方の侍達は呆気にとられた。敵としてとらえた平家とあっさり親子の縁を築いてしまったのである。どう冷静に考えてもおかしな話だった。この事件にひっくり返るほど驚いたのは頼朝であった。
 頼朝の驚きは分かる。というのは彼ほど「女」に不自由な人間もいないからだ。不自由の理由の全ては北条政子の存在だった。不義がバレようものなら「終わったも同然」だ。政子のお説教とくればもう「今日のあなた様は誰のおかげで・・・」と決まっている。北条氏の影に、頼朝は死ぬまでおびえる身であった。政治家としての責任を全うするならば、免れることは出来ない人生における制約だった。ところが義経は、そのような政治的センスを全く理解できない。あの後白河法皇も「源氏の大将義経と舅の縁ならば、時忠らを減刑するほかあるまい」などと、ややこしいことを言い出した。法皇におかれては、あのとおり油断も隙もないお方だけに「義経を自分の側においといて、頼朝めに好き勝手はさせぬ」との意図も透けて見えてくる。義経の軽薄な挙動でいろんな影響が出ているのだ。

壇ノ浦合戦跡 (山口県下関市)にて・・・

 関門国道トンネルは、自動車だけでなく歩行者や自転車専用の「人道」がある。エレベーターで地下へ降りて通行出来るのだ。下関側の出入口は、公園になっている。そこで、壇ノ浦合戦跡の記念碑を見ることが出来る。もちろん、すぐ後ろは関門海峡で、恐ろしく速い「潮流」に目を奪われた。河が氾濫を起こしたみたいな速い流れである。多少、泳ぎが達者でも溺れてしまうのではないか?と思った。なるほど、当時の服装のまま舟から落っこちたら、命は無い。
 ちなみに、すぐ近くに「長州藩の大砲」がズラリと並べてある。下関戦争の舞台となった訳で、この「関門海峡」は、細かい話では宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘とか、いろんな歴史ネタが詰まっている場所である。幕末のネタについては、当ホームページ「幕末会津藩の悲劇」もご覧ください。

関門海峡に平の知盛と義経の像が・・・

↑関門海峡に平の知盛と義経の像が・・・

壇ノ浦合戦跡 (山口県下関市)の碑

↑壇ノ浦合戦跡 (山口県下関市)の碑

義経、鎌倉入りを拒絶され、腰越で足止めされる

 鎌倉軍は、平家の捕虜を伴って鎌倉へ帰ってきた。しかしながら義経は鎌倉入りすることを頼朝から禁じられたのだ。事の重大さに驚いた義経は、有名な「腰越状」を満福時にてしたためた。「お兄様、わたくしは謀叛などと何も考えてはおりません、私は苦労してとうとう五位の尉まで登り詰めました。源氏のためにここまで出世したのに何で喜んでいただけないのでしょうか・・・」と。
「あいつは何も分かってないではないか!なんで京都で出世することが鎌倉の為なんだ!そんなこと関東の御家人は誰も望んで無い!彼らは自分達の生活をかけて私を担ぎ出しただけだ!あいつの考えでは鎌倉は運営できん!」
 頼朝は断固として義経の鎌倉入りを拒んだ。義経は失意のまま、鎌倉を後にする。

神奈川県鎌倉市:満福寺

↑腰越状をしたためたとされる満福寺〜門前を江ノ電が走る

神奈川県鎌倉市:満福寺

↑電車が来るとこんな感じ



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北条四郎のホームページ〜勝手に鎌倉紀行のコーナー


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