尾崎行雄記念館


尾崎行雄先生〜津久井が生んだ憲政の神様

 八幡神社を出てさらに東進すると、尾崎咢堂記念館が見えてくる。咢堂とはペンネームのことで、教科書でおなじみ「憲政の神様」とされる尾崎行雄先生のことである。尾崎行雄先生こそ、津久井町が生んだ英雄ではあるが、記念館がまことにしょぼい。でも、質素であることこそ民衆の側に立ち続けた先生の遺志に沿う訳ですな。
 尾崎行雄先生は、安政5年11月20日にこの地で生まれた。明治元年に母親に伴われて上京、後に慶応義塾大学に入学、自由民権運動大反対・清国なんてぶっ潰せなどとほざいてる福沢諭吉と合うはずもなく、後に退学している。世は薩長を中心とする藩閥政府の天下、次第に自由民権運動への志を深めていく先生は、明治18年東京府会議員に当選。三大事件建白書で保安条例により東京退去処分を食らう。明治23年第1回総選挙で三重県から衆議院議員初当選、それ以降63年間という長い長い民衆のためのたたかいが始まるのである。

打倒薩長藩閥!打倒桂太郎!

 明治末期から大正初期にかけて、日本は薩長を中心とする九人の元老で牛耳られていた。陸軍大将の桂太郎が組閣した第三次桂内閣は、天下の老害〜山県有朋の言うがままに軍拡路線を突き進もうとした。立憲政友会に所属していた尾崎先生はこれに反発、立憲国民党の犬飼毅らと協力して「打倒藩閥」を掲げて運動したのである。桂の狡猾な妨害に国民の怒りも爆発、国会議事堂に押し寄せる者多数といわれた。桂はとうとう逃げ出した。後の山本権兵衛内閣は、軍部の影響を緩和することで国民に対して大幅な譲歩をしなければならなくなり、運動の成果は大きかった。先生は犬養毅と共に「憲政の神様」と言われるようになったのである。

普通選挙運動に参加

 当所は普通選挙は早計だと考えた尾崎先生だが、大正デモクラシーの荒波は彼を普通選挙運動の陣頭に立たせることになった。大正になっても未だにのさばっている藩閥政治の打倒・・・この運動の始まりは、米騒動といわれる女たちの一揆から始まったとされる。尾崎先生はもちろん、婦人参政権運動も支持した。女性は政党に加入してはならない、演説会に参加してはならない、などという、風呂桶を別々に用意させるような時代錯誤の治安警察法改正運動にも参加した。
 大正13年、これらの努力も実ってか、成年男子のみの普通選挙がようやく実現した。しかしながら高揚する社会主義運動に脅威を感じた枢密院等の保守派が圧力をかけ、天下の悪法治安維持法の成立をみるに至った。次第に日本が軍国主義の道を転がり落ちていく中で、尾崎先生の苦悩の日々が始まるのであった。

先生は完全に孤立、しまいには不敬罪を吹っかけられる。

 普通選挙が実現したところで、官憲が治安維持法を振りかざして思想弾圧を行えば、選挙など何の意味もない。日本が軍国主義の坂道を転がり落ちていく中で、尾崎先生は徹底的に反軍国主義・治安維持法全廃の立場をとるのであった。次第に孤立していく尾崎先生〜大政翼賛会という、政党政治が自殺をしたも同然の茶番劇に抵抗する先生の姿は既に痛々しいものになりつつあった。昭和17年に行われた翼賛選挙〜政府と軍部の推薦がなければ選挙運動を妨害されたって干渉されたって構わないという無茶苦茶な選挙〜これに対して東條英機に選挙中止を勧告したのである。人には竹やり一本で撃ちてし止まぬなどと言って、自分のことになれば重武装の憲兵隊をパシリに使う東條にとって、憲政の神様などとお笑い種だった。先生は不敬罪を吹っかけられて巣鴨拘置所に放り込まれたのである。昭和19年、結果は大審院で無罪判決という茶番ぶりだった。
 戦後も民主主義擁護と世界平和のために奔走、昭和29年10月6日、ついにその波瀾の生涯と閉じたのであった。(相模原市みちの協会のパンフレットを参考にさせていただきました) 


又野運動公園へ到着〜お山の緑が美しい↓

一瞬方向感覚がマヒするような三井大橋

 三井大橋は、一部マスコミによって心霊スポットのような取り上げ方をされた。言われてみれば三井大橋から見える湖面は、何だか吸い寄せられるような不思議な魅力を放つ。橋の無常なまでの直線ぶりも印象的ではある。そんなことを心配する以前に、この橋は歩車分離がされておらず、歩くのも運転するのも注意を要する。もちろん神奈川の橋100選に選ばれている。



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北条四郎のホームページ〜ここは都会なのか秘境なのか・・・津久井&相模湖紀行のコーナー


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