もちろん盛岡城でがんす桜山神社盛岡八幡宮

楢山佐渡、薩長新政府と決別!

楢山佐渡の見た京都、何やら異様な雰囲気

 江戸に達し、さらに東海道を西へ進軍すると、何やら黒ずくめの兵士達が街道を封鎖している。東海道を東進する征討軍の一隊であろう。横柄な指揮官が制止を命令する。時代が時代なら、二十万石の筆頭家老を前に、そんな態度で出られる筋合いは無いのだが、相手は「朝命でごわす」などとバカの一つ覚えのような文句で押してくる。楢山以下、南部藩将兵は毅然とした態度で挑み、征討軍と交渉した。こっちも朝命が為に上洛するのに、おかしなことだが、天下の情勢は 「名代なんか派遣しても意味が無い」 ほど進行し始めていた。

 京都市中に到着するなり、楢山の表情は曇った。西洋式の軍服を着込んだ西国の藩兵でごった返している。これまで抑えつけられていた反動からか、西国諸藩の志士気取りの連中が肩で風切って歩いている。花街は、そんな「志士」とやらであふれ、退廃そのものであった。王都警護に就いた会津藩は、まさに尽忠報国、武士の鏡、♪内裏繁盛公家安堵、世の中ようがんす、と流行り歌まであったほどで、先帝の信頼も揺るぎないものだった。新撰組こそ花街で遊んでる奴らもいたが、規律違反は死をもってのぞんだではないか。
「嘆かわしい!」格式を重んじる楢山は、避けるように狂乱と退廃の傍を通り過ぎた。

東京都日野市〜新撰組まつりにて京都御苑〜気温37度で死にそうだった!西郷さん〜もちろん上野公園

西郷と会見〜律儀に紋付袴まで着込んだ楢山は卒倒寸前・・・

 楢山佐渡は西郷隆盛と会談した。薩摩藩邸に入って、警備の手薄なことに驚く。もはや天下は俺達のもんだと、高をくくっているのだ。屋敷に入って行くと、西郷とその部下達は車座になってすきやきをくちゃくちゃ食っていた。西郷の、まるで一風呂浴びた直後のようなラフな姿に、楢山は面食らう。西郷から声がかかった。「南部盛岡から来なさった?そいつぁ・・・さぁ食って食って・・・」と。車座になってる連中は「うまかー」とはしゃいでいる。まるで町人の長屋の風景である。
 楢山の血は逆流した。こいつらは侍ではない。話すべきこともない。いや、新政府は長くもたないだろう。
 現代人は、こうした楢山の判断を、時代遅れ、やっぱり東北人は田舎者、などと評するのだろう。しかしながら楢山は、上級武士として、お殿様の前でも恥ずかしくない教養と立居振舞いを躾けられている。おそれおおくも天皇様の軍を統率する人間がこれでは・・・信じられん!・・・楢山こそ真に受けてしまったのだ。

岩倉具視と会見・・・単純律儀な盛岡人は、完全に騙された

 さて、楢山は岩倉具視と会見する。楢山は、あくまで朝廷のご意思を確かめたい一心だった。あのザマは何だ?朝廷がお認めになってのことか?一方岩倉は、こうした楢山の焦燥が透けて見えるようだった。「ほほう、薩長が憎いな?好く奴なんぞおらん。所詮、朝廷は兵力を持たぬ故・・・奥羽はどうじゃ、薩長を凌ぐ連中はおらんのか。貴公はどうじゃ?天子様の思し召しを得たいとは思わぬかの?グフフフフ・・・」
 岩倉の思わぬセリフに楢山はギクっとする。何が言いたいのだろう!薩長に倒幕をやらせたがどうも好かん、ということか。朝廷も一筋縄ではないらしい・・・ねるほど。
 奸物の中の奸物を前に、楢山はまな板の上の鮭のようだった。この単純極まる盛岡人は、陰湿なお公家さんの生態や、壮絶な朝廷工作の世界に疎い。会津といい、南部といい、結局のところ「騙された」のだ。

楢山佐渡の決意・・・薩長新政府には協力せぬ

 さて、楢山が京都にいるうちに状況は刻一刻と暗転していった。薩長軍と奥羽諸藩はついに白河で激突、薩長の横暴を許すなと奥羽列藩同盟が成立し、事態は日本を二分する東西戦争と化してきた。京都に駐留する楢山隊は大きく動揺する。まだ南部藩は薩長新政府と直接戦闘を始めた訳ではない。が、長居は危険のようだ。
「薩長は許せねぇ、連中の粗暴な振る舞いを見れば分かるでねぇか、あれでも侍か!あいつらのどこが勤皇か!」
「んだんだ、武士の風上にもおけね、楢山さん!我々は列藩同盟と共に戦うべきでしょう!」
 官軍と称する連中の傲岸不遜なる態度を見てきた若い藩士達は激高していた。ところが一人だけ彼らと意見を異にする男がいた。中島源蔵である。
「楢山殿、たとえ草賊なれど、官軍は官軍でござります!」

 楢山は少し考え込んでいたが 「中島殿、草賊ごときにひれ伏すならば、武士など辞めて町人でもなるがよろしかろう。南部武士をもののふの道から外れた恥知らずにはさせぬ。それが余の務めと考える。」
 もはや楢山の決意は確固たるものになっていた。中島源蔵はこの後、抗議の意を示して切腹するのである。

楢山、仙台藩から秋田進撃を要請される

 夷をもって夷を制す、薩長新政府の卑怯な刃が東北諸藩につきつけられた。事態は刻一刻と悪化していく。秋田藩が列藩同盟を離脱した。この藩も勤皇か佐幕か真っ二つに割れていた藩である。ついに勤皇派が藩主に建白書を提出、藩主佐竹義堯は「新政府側につく」と決断したのである。それだけで戦争になるとは限らない訳だが、ここで一つの悲劇が起きた。秋田に出張していた仙台藩士と南部藩士が、秋田藩士の襲撃を受けた。襲われたほうも何がなんだかさっぱり分からぬまま斬殺された。これは薩摩藩の大山格之助が裏で糸を引いていたのだ。奥羽全体を無意味な戦争に持ち込む新政府〜彼らの術策に単純律儀な東北の人々は見事にひっかかった。
 楢山隊は仙台まで戻って来た。ここで仙台藩家老但木土佐と会見する。但木は秋田藩士による襲撃事件に激高していた。楢山殿、ぜひ秋田へ進撃して欲しい、というのだ。楢山は困った。秋田藩への私的な恨みはないが、楢山の脳裏にはかつての「一揆」の忌まわしい記憶がよみがえった。永らく仮想敵国としていた仙台藩である。一揆勢は大挙してその仙台藩に押しかけ、南部藩の失政を訴えた。あの時の屈辱、仙台藩に対してとてつもない借りをつくったことへの後悔、とうてい忘れられるものではない・・・。楢山は、東北の限られた地域での範囲でしか、「政治」を考えることは出来なかった。そこに彼の限界があった。

もちろん盛岡城の石垣もちろん盛岡城の石垣


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【勝手に歴史紀行編】〜最後の武士、楢山佐渡

・楢山佐渡といふ男  ・楢山、薩長新政府と決別!  ・秋田戦争敗北〜佐渡処刑!




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