もちろん盛岡城でがんす桜山神社盛岡八幡宮

秋田戦争敗北、佐渡処刑!

南部藩、新政府と全面対決へ

 さて、盛岡城では・・・列藩同盟に与して秋田を討つか、薩長に与して庄内藩を討つか、堂々巡りの議論が続いていた。「庄内藩は江戸で騒乱を起こした芋侍を成敗しただけでねぇか、なのになんで連中を討たねばならぬ」「断れば朝敵の汚名を被るだけでやんす」「騒擾を起こしてどさくさに天下を取ろうとした卑怯者が真の勤皇か?」「錦の御旗をあげてるのはあいつらでねぇか」「うむ・・・」

「楢山殿がお帰りになったぞー」・・・一堂は目も耳も見開いて楢山が何を言うのかを待った。
「薩長は勤皇どころか、姑息なやり口で天下を奪い取った反逆者にほかならない。会津・庄内両藩を討伐せよという勅はそもそも偽勅である!天子様が幼いことにつけこみ、薩長は自らの私の恨みを晴らさんがため勅命を捏造しておるのだ。我らは武士である。もののふである以上、卑怯な輩を討ち、君側を清めねばならぬ。無実の者を陥れ、朝廷をないがしろにする者共にひれ伏すとなれば、もはや武士ではない。拙者は義の為に戦い、死ぬ道を選ぶ」
 勤皇派の藩士達は呆然とする。勤皇というから、それはただ勤皇というだけのことであって、偽勅だとか幼帝擁して勝手な政治を始めるだとか、考えもつかないことだった。自分達は利用されていた、利用されて薩長の手先にされて兄弟が相食む・・・そうやって奥羽越諸藩の力をそいで、薩長に都合のいい国を作ろうとする、姑息なやり口だ。そうではないのか?
 評定の場で秋田藩への進撃が決定された。もちろん楢山の報告が無ければ起き得なかった結論である。このことが南部盛岡人の運命に決定的な影響を与えるのだ。原敬も首相にならなかったかもしれないし、東條英機も生まれなかったかもしれない。ということはその後の世界史全般に影響を与えたのだ。

桜山神社桜山神社桜山神社

南部藩兵〜秋田へ進撃

 秋田藩へ進撃・・・南部藩兵が総出で盛岡を出陣するなどと、何百年ぶりのことだろうか、本人たちも分からないくらいだ。藩士の家族・領民、みな呆然としながら彼らの出陣を見送った。悪い知らせも入っていた。早くも津軽藩が同盟離脱を宣言、津軽が裏切った!と藩士達の間に怒りが湧き起こっていた。総大将楢山にとって、津軽離脱は重荷だった。北の守りを意識しながらの西への進軍である。
 南部藩は秋田領へ怒濤の進軍を開始する。ついに秋田藩の重要拠点、大館城へ到達、秋田藩兵は火を放って逃げ出した。この戦功により南部利剛は全将兵に感状を贈る。楢山をはじめ、南部藩兵らが歓喜の頂点に達した、夢の一瞬だった。次なる目標は能代である。
 ところが・・・新政府軍の行動の速さは想像を超えるものだった。ドーン!という脳天を割られるような砲声に全軍がたじろぐ。官軍ご自慢のアームストロング砲が秋田領に到着、圧倒的な物量を誇るように次々と撃ってくる。一瞬にして吹き飛ばされる将兵や軍馬・・・「ひけ、ひくのだ!」各指揮官が撤退を命ずる。逃げ惑う藩兵に新型ライフルの銃弾が追い討ちをかけた。
 もはやこれまでか・・・楢山は敗軍の兵を率いながら、次のそれからを考える。明らかに盛岡軍の装備はお粗末だった。大砲といってもアームストロング砲に全くかなわない。新政府軍は白刃をふるって飛び込む南部藩兵から距離を置き、正確な狙撃でバタバタと撃ち倒していった。もはや武士の戦争ではなくなっていた。武士を必要とする時代が終わりかけていたのだ。

南部藩全面降伏へ〜東次郎、戦後処理のために藩政へ復帰

 もはや奥羽越列藩同盟は瓦解していた。米沢・仙台に続き、あの会津藩も鶴ヶ城を砲弾でめった撃ちにされて降伏、庄内藩も降伏した。南部藩では・・・秋田侵攻軍の苦戦が伝えられると、謹慎中の東次郎が動き出した。戦いを何もしていない人間がライバルの苦戦を尻目に藩主に上申に及ぶとは卑怯かも知れぬが、事態は切迫している。人情家の南部利剛は、答えを渋った。東の進言はいつも的を得ておる、しかしだなぁ、楢山は義の為に戦っておるのじゃ・・・。楢山の立場も分かる、東の意見も分かる・・・お殿様の温厚な性格は、結局裏目に出てしまった。負け戦ならば、非情でも断を下さねばならない。南部利剛はついに停戦命令を発することになった。

 南部藩全面降伏!藩兵の盛岡引き揚げと共に新政府軍がドカドカと入城してきた。略奪騒ぎになるのは必至と、城下の町人屋敷などは早々と疎開している。徹底抗戦を貫いていたら会津鶴ヶ城と同じ修羅場と化していたであろう。

「おめぇにばかり苦労さかけて・・・」利剛は楢山と対面すると、涙ながらに声をかけた。楢山は思わず感極まり 「ははぁーっ」と平伏するのみである。楢山の脳裏にあったのはただ一つ、「一切の責任は自分にある、わたし一人が腹を切ればいい」まさにそのことであった。そして実際にそうなった。

護国神社(盛岡八幡宮内)南部利恭が維新後に建てた。岩手県の戦没者を追悼する神社雰囲気が靖国神社そっくり神聖な雰囲気が漂います

新政府、南部藩への処分を決定〜最後の武士、楢山佐渡処刑される!

 さて、反逆首謀者の処刑は案外後の話になるようだった。既に京都においても楢山の「武名」は轟いており、新政府首脳が協議して首謀者の処刑・藩主や藩への処分を決めることとなった。そのために南部利剛と息子、首謀者の東京護送が命ぜられる。随行を許された南部藩士達は、刀も取り上げられた。侍にとって刀を取り上げられる屈辱は死よりもつらい。盛岡から東京まで、延々数百キロの道程を見せしめの為に引き回された。

 さて、南部藩に対する処分は会津藩に次ぐ厳しいものであった。藩主利剛の東京謹慎に加え、仙台藩領内の白石十三万石への国替えである。盛岡を去らねばならぬのだ。十三万石では全ての家臣が食っていけるはずがなく、解雇は避けられまい。こうした過酷な終戦処理に、東次郎が活躍の場を与えられたのは、皮肉であった。
 しかしながら東は「情」を忘れることはなかった。楢山の処刑に際し、盛岡での処刑を新政府に歎願したのである。これはあっさり認められた。南部藩の家老が他所で死んだところで、大した問題はない、ということか。「盛岡さ一目見て、それから死ねる!」楢山はこのことに感謝したという。盛岡では、既に引き揚げ作業の真っ最中だったが、多くの藩士が「楢山さんの処刑が終わってから」と引越しを引き伸ばしていた。楢山が盛岡に護送され、斬首(限りなく切腹に近い形をとったらしい)される直前に記した「時世の句」は、あまりにも美しい。




 「花は咲く 柳はもゆる春の夜に うつらぬものは 武士の道」

 彼は最後まで武士であろうとし、武士の世を自分自身で締めくくった、と言えようか。武士の世はこれで終わったが、精神は残り、次の世代へ受け継がれることになる・・・。

我らが盛岡八幡宮〜第29代南部重信により建立やっぱり盛岡は最高!


【勝手に歴史紀行編】〜最後の武士、楢山佐渡

・楢山佐渡といふ男  ・楢山、薩長新政府と決別!  ・秋田戦争敗北〜佐渡処刑!




北条四郎のホームページ〜イーハトーヴの世界を堪能〜勝手に岩手県紀行


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