孝明天皇崩御

薩摩の変節・岩倉具視の暗躍

 もはや幕府の威信は地に墜ちた。お調子者が暗躍し、誠に生きる者は消える運命にある。薩摩の変節は、会津にとって裏切り以外のなにものでもない。島津久光の考えている公武合体の政策も、西郷隆盛や大久保利通らの行動によって次第に骨抜きにされていた。幕府も読みが甘い。久光がそこまで無力だとは想定外のことだった。
 西郷や大久保らが、事実上薩摩の藩論を握っている。岩倉具視は既に彼らとツーカーだった。この岩倉という男の変節も甚だしい。当初、公武合体論者で孝明天皇のご信認も厚く、そのことが三条実美らとの政争に敗れた経緯があった。岩倉のお調子者ぶりは、もうこの頃からころっと考えを変えていることで分かる。もちろん幕府も薩摩と接触している岩倉を厳重に監視していた。もともと公武合体論者だっただけに、佐幕の人々の内部事情に詳しい。転向者ほど恐ろしいとはこのことで、岩倉はどんな手段を用いても自分が復職し、佐幕の人々を朝廷から追い出したかった。
 そうは言っても孝明天皇が公武合体のお考えであり、一ツ橋慶喜や幕府に理解を示す穏健な人々を厚く信頼されているからたまらない。正に朝廷と幕府がしっかりと手を握り、厚い信頼関係の元によりよい政治を行っていこうとした訳だ。岩倉ら、野に下っている連中にとってそれは邪魔だった。そして、孝明天皇が突然崩御なされた。あまりにも不可解な最期に、暗殺説も噂された。

孝明天皇陵のある「泉涌寺」を訪ねてみました

 京阪電車東福寺駅から、徒歩15分ぐらいのところに「御寺:泉涌寺」がある。とにかく入り口までが長いこと、ちょっとしたハイキング気分も味わえる。真夏の暑い一日だったが、山を登っていくのでかなり涼しさを感じる。江戸時代より皇室との結びつきが強く、歴代天皇が山内に葬られるようになった。孝明天皇もここに眠っている。

孝明天皇陵

↑孝明天皇陵は、宮内庁所管の敷地として分けられている→陵墓側写真

泉涌寺

↑泉涌寺の入り口〜とにかく入り口までが長い

泉涌寺

↑皇室の方々が参拝に訪れることもあるという

泉涌寺月輪陵

↑天への入り口を思わせる月輪陵〜孝明天皇陵は、山の上の方にある→陵墓側写真

 「陛下が・・・陛下が崩御なされた・・・」容保は呆然自失する。もはや我々は十分お勤めを果たした、部下と一緒に会津へ帰ろう、そう考えた。
 孝明天皇が崩御されたのをこれ幸いに、岩倉らは喪中であることもそっちのけでガタガタ動き出した。岩倉らの復職工作は、まだ少年だった後の明治天皇が起こるどさくさに行われた。最後の将軍慶喜はすっかり弱気になってしまっている。長州征伐は失敗、しかも容保は会津に帰りたいとか言い出すからたまらない。将軍は何とかして容保の引きとめにかかる。幕府の大いなる理解者だった孝明天皇の崩御は、取り返しのつかない損失だった。

 元土佐藩主山内容堂は苦悩していた。幕府に一定の理解を示していた彼は、何とか幕府の解体を穏便に済ませる方法は無いかと思案した。そこで出た結論が「大政奉還」の建白だったのである。このままでは薩長と幕府は全面戦争になる、実力を伴う討幕ではいけない、せめて平和裏な倒幕に持ち込むべきである、と。
 慶喜はあっさりとこの案を受け入れた。薩摩藩は困った。政権をあっさり返してしまったのである。徳川は、何も政権を薩長に返したのではない。連中に返すものなど初めから無いのだ。政権を天皇に返上した以上、薩長は、討幕のきっかけを無くしてしまったのである。もちろんこのままでは憎き会津をやっつける大義名分もないのだ。



→次ページ:王政復古の大号令

▼▼ 白虎隊に八重の桜〜幕末の熱いドラマをお届け ▼▼

   

北条四郎のホームページ〜「幕末会津藩の悲劇」


.
copyright (c) 2007 hojyo-shiro. All Rights Reserved.
inserted by FC2 system